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月下の禊。
真っ暗な夜の森の中、はだかる木々の小枝を折りながらスサノオはふらつく足で進んでいた。
髭を抜かれたせいで、顎はひりひりと痛く、それよりも爪を取られた手先足先は痛さの余り、熱いのか冷たいのか、とにかくジンジンと四肢を痺れさせていた。
はあはあと荒い呼吸の音。そこに川の流れる音が重なってきた。
「水……っ」
スサノオはその音の方に向かい、川を見つけると一目散に衣服のままバシャバシャと倒れ込むように入水した。衣服に染み付いた赤い血が、川の流れに溶けていき、血の匂いが鼻についた。
「……ツゥ」
身体の痛みと、呆けた頭。
「………俺は………」
スサノオは覚えていなかった。罰を受け、高天原から追放された事実だけは理解していた。でも、その理由となる部分の記憶を喪失していた。
“お母さん” という存在は、生まれの順に、その子が輝く方法を教えていると思っていた。
アマテラスが完全な輝きを習得し、ツクヨミも同様にそうなれば、次は自分のところに“お母さん” は来てくれて、そして教えてくれると信じていた。
だが違った。
“お母さん” なんて、いなかった。
アマテラスは誰に教えられなくても、あの輝きを放つ事ができていた。ずっとずっとずっと、いつかいつか必ずと待ち続けていた望みは、砂が風にさらわれるように崩れ去った。
というか
「俺の思い込みだった……」
アマテラスは何も悪くない。本当の事をそのまま答えただけ。なのに俺は、奈落に堕とされた気がして。場違いな空気を疎ましく思い……
「……何をしてしまったんだ……」
日に日に高天原への歪んだ苛立ちが膨れ上がり、スサノオは暴走した。咆哮をあげ、力まかせに大暴れを重ねた。
臨界点を超えた後の事は、何一つ覚えていなかった。
ただ世界は闇になり、その闇が続いた。
取り押さえられたスサノオは、アマテラスを大声で呼びつけたが、アマテラスは助けに来なかった。
「そりゃそうだ……」
アマテラスは天岩戸の中にいた。
ザワザワと闇の中で動く天津神を見ながら、焦点も合わず、朦朧とする脳裏に正気が戻ってきた。鶏が突然一斉に鳴き、派手な宴会が始まって。
そしてアマテラスは連れ戻された。
「アマテラス……」
天津神たちはアマテラスの出現を大喜びした後、すぐにスサノオへの処罰をアマテラスに申し出た。
こんな者の腕は切り落としてしまえと誰かが言った時、アマテラスは首を横に振った。
それは駄目だ。腕は生えない。生えないものは無くさせない。
その声を聞いた時に見たアマテラスの顔は、蒼白だった。アマテラスの指示に従い、スサノオには髭と爪を抜くという罰が下された。
「……痛えわ」
清らかに流れ続ける水は、染み付いた血も流してくれた。
「でも……もう生えてきてる……」
再生の早さは、神ゆえか。きっと普通の神より、早いのであろう。いや、この川の流れが癒してくれているからかもしれない。頭も身体も心も全て、冷たい流れの中で冷やし、清めたいとスサノオはそこにいた。
明るい月が天を照らしていた。
「ツクヨミ……」
月は姿を日々変えたが、そのどれもが美しかった。
「ツクヨミは……とっくに完全だったんだ」
そう呟きながら見上げた月は、静かだが美しかった。
「俺だけがどうしようもないな……」
スサノオはアマテラスの言葉を思い出した。
「お前だって美しい輝きを放っている」
「俺は……」
アマテラスの笑顔を浮かべると、見上げた月がぼやけて二重になった。
「訊けば良かった……俺のどこに輝きがあるのか…アマテラスなら教えてくれたのに……なんであの時、素直にそれを確かめられなかったんだ……」
スサノオはおいおい泣いた。でもその涙は、悲しいのか嬉しいのか何なのか、複雑すぎて分からなかった。
「アマテラス……今度会う時は、絶対に恥かかせねえから……お前の鼻が高くなるような、そんな土産を持っていくから……アマテラス、本当に……ごめん……」
川から上がり、草の上に倒れ込むと、土と葉の混ざった香りがスサノオを包んだ。
スサノオはまた子どものように泣きながら、そのまま眠りの中に落ちていった。
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