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比野川君のずる休み
窓から与田君の頭がチラッと動きの速いモグラみたいに私の目をかすめていく。いつもの朝だ。父の自営する花屋の近くにあったゲームセンターで母と私はモグラ叩きの点数を競い合った。
――点数に差をつけるべきよね。
――そうだよね。動きの速いのは三十点欲しい。
――もう一声、四十点。
――ごーつくばり。
――まぁた、変な言葉覚えて使って、お母さん困っちゃう。
あの叩き損ねたモグラの色は、何色だったっけ。毎朝五年四組与田君のトーキンなヘッドに出題される記憶の問題は正解がセルフサービスで、困っちゃう。
ガラガラ。重たい戸。こんなに重たいから指を挟んで骨折するんです。そんなことは何年も前から議題にあがっているのに。なんにも変わらない。スクール水着のデザインは変更されても。ブルマが運動場からお尻はみ出させて消えても。
――はーい。席についてますね。皆さんおはようございます。
トントン。教卓に出席簿を軽く叩いて、児童諸君に挨拶をする。起立の前に。日直さんの掛け声の前に。
――きりーつ。
児童達の返事は規律正しく、日直さんの号令に従って一団で。
――れーーい。
――おはようございます。
――ちゃくせーき。
グイー。椅子が床に擦れる音がする。教室一面に男の子と女の子がいる。机の上にもう一時間目の準備をしている子、何も置いていない子。私は教卓から自分の机の上を確認する。金木犀。
――今日は金木犀、荻野さん?
――今日は私じゃありませーーん。
――あら、残念。誰かしら?
金木犀が脳みその裏側で運動会を始める。うちは今月だ。準備が大変。教師参加リレーで彼は今年もスターになる気満々。
――先生、私でーす。
あら、京野さん。
――お母さんが学校に持って行きなさいって、お庭に生えてるんです。
――どうもありがとう、後で連絡帳を貸してね。
――はーい。
私の事務机に置かれた花瓶には季節の花が咲く。その香りは教室中を淡く懐かしむようにいて、児童達をいつかさらってしまう。誘拐の予約をする。
――では、出席をとります。元気よくね。今日のお題は、生まれ変わりたいもの、です。センスよくね、被ってもいいけど、なるべくオリジナリティーで勝負してください。
私は毎朝出席のお返事にお題を出す。児童達の朝の頭にキックを入れるつもりだった。
――赤坂君。
――はい!! ムササビです。
――理由は?
――飛んでるんじゃなくて、空を滑ってるってのがカッコイイから。
――オッケ、秋田さん。
――はい、急須です。
――二人目で物は飛ばし過ぎよう。
――だって、お茶命なんだもん、私。
――いいけど、石坂君。
――はい、死んじゃったお姉ちゃんです。
――……。上野さん。
石坂君は本気だ。事故で亡くなったお姉さんを誰より好きだったんだ。学校でも珍しい姉好きな弟と弟溺愛の姉だった。教室が静まる。窓からケアハウスの体操ミュージックが聞こえてくる。
――はい、浜崎君、体操しなくていいから。
一度うけたからって、しつっこい。猿と同じで永遠機関になっちゃうのよね。口と尻尾でぐるっと輪っかになって、もう涎で尻尾は溶けているよ。浜崎君。
出欠とりを進めながら、教室を見渡して、比野川君が机ごといないことに気が付いていた。毎朝の景色に落とし穴ひとつ。パンストの股間が音をたてる。逆向きに。
――高山さん。
――ほほーい。ワンコがいいです。
――返事のオリジナリティーよりお題回答を大事にするように。
――ほほほーい。
児童の休み、連絡帳を近所のお友達に親御さんが預ける、か、事前の電話連絡。連絡帳は出欠前に先生に提出のこと。金木犀の香り、落とし穴に充満する。そういえば、今朝は何か、教室内が変だ。
――筒井君。
――イエッサー。雪虫以外ならなんでもいいや。
――対抗しないの。対抗するならお題の回答で。
――イエッサー。ホイサー。
――今のは面白いです。
面白いのに、あまり教室が弾まない。雪虫? もうそんな季節かしら。アブラムシの白い雪綿。正門の植え込みに飛んでいるのを去年はみたけれど。
雪虫以外なら? それはどういうことかしら。
――比野川君。
教室内が騒然とした、ような気がした。実際は静かだった。それはそうだ、返事がない。机も、ない。比野川君の席はベランダ側二列目の一番後ろ。館山さんの隣。そこだけ、机が二つ並んでいない。
――お休みかしら? 連絡帳預かった人は?
児童達の顔色が若干紅潮した気がした。微妙に変な朝だ。集団いじめの始まりだろうか。比野川君はわりかし人気のある子だけど。
――いないの? 電話もなかったんだけどな、これからかしら? ところで、どうして比野川君の机もないのかな?
誰も目を反らしてくれない。真っすぐな目の玉が穴に潜ることもしないで私をみつめている。今晩はデザートに白玉餡蜜を食べよう。
――誰か、返事をしてくれる? あぁ、いいわ。出欠を終わらせてからにしましょう。福田さん。
――はい、猫がいいです。
――いいわよねぇ。
出欠をとり終える。今日のお題賞は、オープンにすると批判がでるかもしれないのでこっそり心で表彰する。ジャジャーン、前田さんの「この木なんの木の木」でした~。語感が大変花丸よろしい。
さて。君達。一時間目が削れちゃいますよ。
――お休みは比野川君だけっと。で、集団犯人さん達、そろそろゲロっちゃいなさい。誰が比野川君を殺したのかな?
ゲホ。
ただの咳ではないことは教室中が知っていた。
心臓に軽い疾患を持っている佐々木君の咳は、佐々木君の心肺に異変が起きたことを現している。
――先生!!
チームプレー。だ、これはマジで深刻なやつかもしれない。股間のパンストがまた逆向きに風を発する。
――何かしら、近藤さん。
――私ね、イタコの伯母さんに弟子入りしたの。誰か、おろしてあげよっか?
――興味深いけど、今話すことではないですね。
――はぁい。
――先生!!
やっぱり、この子達は、知っていて隠している。全員で。
――何、横山君。
――分子と分子のすり抜け実験って知ってる? 人間の体も机やリンゴも、隙間があるんだって。だから、何度もぶつけてれば奇跡的にすり抜ける可能性もあるから、もしも、その瞬間を録画できたら……。
――横山君、今度聞かせてね。
――録画できたら、再生回数できっと一生食べていけるって、だから……。
――横山君、先生は真剣よ?
――ごめんなさい。
――はい。
――先生!!
そら、きた。当たり屋の鉄砲玉。三十六発引く一発。引かれた一発のことを、先生は訊いているのよ。
――はい、涼宮君
――金魚って凍らせて割って、くっつけても氷が溶けたら生き返るって知ってる?
――さくらももこさんのエッセイで読んだの?
――ううん。親戚の兄ちゃんが言ってた。
――今度、そのお兄ちゃんの本棚覗いてみなさい、きっとあるから。
――はぁい。
――金魚っていえば、餌やりは比野川君の仕事よね。
コポコポ、教室後ろの空気モーターが泡を送り続けている。パクパク。金魚の口パクに児童達の隠し事は聞こえてくるはずだけど、私の耳は金魚の耳ではなかった。
――先生!!
弾、になる。児童の顔は誇らしげに勇ましい。その覚悟の具合が落とし穴を深く深くしてゆく。怖いじゃない。
――なんです、北野さん。
――先生、先生、お腹、空いた。
空っぽの弾を撃つほど、切羽詰まっているの。北野さんはサスペンダーを擦って何かに耐えている様子だった。
――給食まで我慢しましょうね、朝ご飯はちゃんと食べようね。
――今日、寝坊したんです。
――はい、わかりました。みんなの手口はバレバレです。先生はそんな手に乗りません。お釈迦様の手なら乗るけど、あなた達はまだお釈迦様にはなれていません。いいですか。
ガタン!!
一喝する。
教卓を掌底で思いっきり叩いた。
先生は空手三段なのですよ。
四月の自己紹介で瓦を七枚割った。
児童に舐められないように。
――比野川君について、何か先生に言うことがあるでしょう?
チームプレーの体勢に乱れを作る打撃をくれてやったつもりが、そうでもなかったか。学級委員の瀬山君が姿勢のいい挙手をする。
――先生、比野川君って、誰ですか?
瀬山君の眼鏡が一瞬窓から入った日光に遮られて真っ黒くみえた。
何を言っているの?
――先生、おかしいよ。
――誰?
――記憶喪失ですか?
――保健室ついて行ってあげましょうか?
あははははは。はははは。チームプレーの嬌声が起こる。感情の抜けた笑い声はサビ抜きの寿司よりもお子ちゃま味だ。
――先生。
最前列の郷田君が顎をしゃくってみせる。いっちょ前にマイムで指図をくれやがって、チンチンの毛生えてないくせに、とも、五年生だから言い切れないけど。
ん、振り向いた、そこには丸い時計が八時四十分を指している。時計の周りに、クラスみんなの手形と横に名前。みんな仲良く、の筆文字はお習字チャンピオンの和歌山さんが書いた。
ん、比野川君の手形がない。
――ちょっと。
大袈裟にのけぞってしまった。腰に教卓の角が命中して鳩が鳴く。
比野川君の手形の位置まで覚えていた。色も、彼は男の子なのに、赤を選んだ。大きくもなく小さくもなく、普通のサイズで。
机も隠し、手形まで、私が教室に入る前の短時間で偽装したっていうの? 落とし穴の底が抜ける。あ、あの速度の速いモグラは赤色だった。そうだった。四十点あげたい、正解を出した私に。
なんで? そこまでするの。私の手、あるじゃないよ。本物から切り取ったの? なんなのよ。人一人、消すつもりなの? 元からそんな子いませんでしたって? 出席簿は? 集合写真は? 比野川君のご家族はどうやって消すっていうの?
――大きな問題にしたいの? 先生はできるならこの教室内の問題は教室の中で解決したいと思っています。先生と、君達とで、一緒に力を合わせて。私も君たちのチームの一員です。
私は児童達の隙間を歩いて回った。一人一人、肩や膝に手を当てていく。お腹が痛ければ、誰かに手を当てて貰った。治療することを手当てする、という。日本語のやさしい気持ちをみんなにも。
肩、膝、お腹、胸、筒井君、胸のロゴ、プーマだね。先生もプーマのジャージ着るよ、体育の時間に。ん? 名札が捲れて、何か裏にみえた。
――ちょっと、名札の裏、みせてみて。
ゲホ。
咳。
それは五年四組の心的な震え、だった。
今朝は何かが、おかしい。
金木犀の強い香り、雪虫以外。これ、ぺっちゃんこの雪虫?
背中が薄くなっていく感覚に襲われた。
児童達が全員感情の抜けたお人形に思えてくる。
何をしたの。
比野川君は、みんなのお友達じゃない。
比野川君は、金魚の餌やり係で、コーラスの指揮担当の人気者じゃない。
嘘、でしょう。
クラス中全員の名札を確認する。
ぺっちゃんこの雪虫。
雪虫の押し花?
これは、一体。これは、意識の共有? 組織の証? 刺青? なんなの、全員でそこまでして、いや、比野川君に何かをした前後どっちかで変わってくる。雪虫の大量押し花は、いつ。比野川君の名札が、みたい。
――もう、いい加減になさい!!
――いつまでも、ふざけるんじゃないの、子供の世界は大人の世界の一部分なのだから。いつまでもそこにはいられないのだから。
声がうわずる。
ただのいじめ、では済まないぐらいの大事かもしれない。
こんな大きな不安、抱えていられるほど大人の世界はあんた達より強くはないのよ。
――校長先生を連れてきましょうか? それとも、警察? いじめはね、立派な傷害罪なのよ。
ゲホゲホ。
佐々木君が咳込みながら、手を挙げていた。
――はい、佐々木君。心臓大丈夫なの?
――はい、先生、ちょっと弾み過ぎるだけです。大丈夫。
――そう、で?
――みんな、もう、降参しよう。
佐々木君が私を落とし穴から救い上げてくれるようだ。助かったよ、私はモグラじゃないんだ。ヘルメットもサングラスもしていないんだ。
――トウチャコ川は、オフ会に参加したんです。
――そのあだ名は、今はよしなさい。
――比野川君は、とある配信者の大ファンで、そのオフ会に学校をさぼって行ったんです。
落とし穴から、救い上げているの、それとも、私を叩き落としているのかしら。
――僕たちはあいつのさぼりに協力してやったんです、なんとか、先生を錯乱させようって。
佐々木君の声が、平板でザイルをかける凸凹が見当たらない。
金木犀の香りが、教室中を漂っている。
窓から風が吹き込んで、カーテンが?
カーテンは?
そんなことに今、気が付くの、私。
カーテンがないじゃない。
カーテン、雪虫、何を、したの、あなた達。
――みなさん、雪虫は、熱を嫌う虫です。人間の体温でも、弱ってしまいます。火傷するんです。みなさん。嘘もまた人を焼きます。自分のこともです。虫の命も人の命も、尊いものです。先生は、みんなのことが恐ろしい。
膝から力が抜ける。
比野川君、十一月に市の合唱コンクールがあるの、学校の代表を目指そうって、みんなでエイエイオーしたよね、君の指揮棒は誰よりも高くを指していたよ。
――そんなの知ってたよ!!
誰の声。
――雪虫押し花、綺麗じゃん。
――配信者が作ってたんだ、真似した。上手にできた。
――みんなの結束に、カラーギャングのバンダナの代わりさ。
誰の声。
――火傷も何も、ぺっちゃんこだもん。
――虫には人間と同じ痛覚なんかないんじゃないんですか?
――先生、本当です、比野川君はバスに乗って行きました。
――ちゃんと帰ってくればいいけど、大人達にさらわれたりして。
――大人の集団は怖いから。
――何をされても不思議じゃないぞって、みんなで止めたのに。
誰の声。なの。誰なの。
――先生、ごめんね。
――びっくりさせちゃって、比野川君の机は多目的室です。
――先生、授業始めなくていいの?
ゲホゲホ。
佐々木君。心臓、本当に弱いの?
先生、立てない。
カーテンは何処へやったの?
どうしてそう、みんな揃って比野川君を……。
私は震える足で教室を出た。
職員室に飛び込んで、電話をかける。
もしもし、比野川大輔君が学校にきていないのですが。
ええ、ちゃんと登校した?
はい。
わかりました。
切れた受話器をいつまでも握り締めていたかった。
上履きのまま、ゆけるところまで電話のコードは伸びそうもないけど。
雪虫。
まだ十月じゃない。
戻らないと、教室に。
職員室を出て廊下を歩いたら、何処からか、金木犀の香りがした。
逃げられない現実に、私は、逃げられない。
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