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「祐衣(ゆい)ちゃん、新しいスマホ欲しいんだったよな?」
お風呂上がりの妹を、リビングでビールを片手にソファで待ち構えていたのは、珍しく実家に帰省していた五つ年上の社会人の兄、翼(たすく)だった。媚びを含んだ兄の笑顔に、祐衣は即座に面倒ごとの気配をキャッチした。
「結構です」
祐衣は、ほんの一瞬見ただけで翼から目を逸らし、火照った体の目当てである炭酸水を取り出すため、冷蔵庫をバカリと開けた。
「えぇっ?言ってたじゃん!画面バッキバキだから替えたいって!」
「だって、何かあるんでしょう?交換条件が」
間髪入れずに「それがさぁ」と翼に切り出され、祐衣はキャップを開けつつの惰性で聞き返してしまった自分を恨んだ。なにも聞かずに完全無視で寝室に行ってさえいれば、本来家族でさえ全く関わりない、兄の一身上の都合に巻き込まれることもなかったのに。
普段使っている、大学近くのコーヒーショップと同じチェーン店だ。しかし、オフィス街のど真ん中にある店は、学生街のそれとは客層だけでなく店の雰囲気も、店員の接客態度さえ違って見えた。
仕事帰りの大人たちで混み合う店内で、学生然とした服装の祐衣は多少の居心地の悪さを感じながら、二人席の壁側のソファに座ると、膝の上のバッグからスマートフォンを取り出し、現在時刻を確認した。
十八時二十二分。待ち合わせの時間までは、あと八分だった。祐衣は、ちらりと前方にある店の入り口を見た後、一、二分の間SNSをチェックしたが、なんの気晴らしにもならず、スマートフォンをテーブルに置いた。代わりに、今度はバッグから名刺サイズの折り畳みミラーを取り出し、自身の見慣れない姿を鏡に映し出した。
ピンク味がかった茶色の髪、つけ睫毛の目、朱色に染まった唇。手櫛で髪を軽く漉き、右斜め左斜めと鏡像の向きを変えた。
あの写真の人物と、ちゃんと似ているだろうか?何度も確認したはずの画像を、自信の無さから、もう一度見たくなり、テーブルに伏せていたスマートフォンに手を伸ばした時だった。
「奥村(おくむら)祐衣さん?」
ふいっと、顔を上げて祐衣が目にしたロングヘアーの女性は、グレーのパンツスーツを身に纏い肩に黒いトートバッグを提げ、話しに聞いていた通りの営業職らしい格好をしていた。確か、兄の翼より二つ年上のはずだったが、彼女の方がもっとずっと、それ以上に年上に見えた。
「…はい。えと、その…玲(れい)さん、ですか?」
「はい。いいですか、座って?」
翼のスマートフォンで見せられた未加工の写真よりも更に華やかで迫力のある実物に気圧され、祐衣はただ頷いた。
約束の時刻ちょうどに現れた女性、兄と交際中の「彼女」である上津(かみつ)玲は、トートバッグを下ろし曲木の椅子に腰を落ち着けると、祐衣に笑顔を向けた。
「はじめまして」
彼女の弓なりになった目の奥は、笑っていなかった。疑われているな、察知した祐衣は、イメージしていた手順を実際の行動に移した。
「これ、わたしの身分証明になると思います」
玲はビジネスライクな手つきで祐衣から渡された学生証を受け取り、不躾といってもいい程じっくりと眺めた後、今度は同じ視線を祐衣本人に向けた。
「失礼かもしれないけど、似てないね、翼くんと」
「親が再婚同士で、お互い連れ子なんで」
「そうなんだ。これ、どうも」
言葉とは裏腹に納得した様子が微塵もないまま、祐衣の学生証は返された。
「馴れてるの?こういうの」
うつむき、バッグの中に学生証を戻す最中に言われ、もう半分仕事が終わった気でいた祐衣は、どう答えたものか、迷った。しかし、顔を上げた時には返答を決めていた。
「『こういうの』って?」
はっきりしない質問に対しボロを出さないためには、質問で返すのがいちばんだ。
「お兄さんの、浮気の尻拭い」
ああ、やっぱり、全然バレている。駄目じゃん。
正月と盆休み以外、実家に帰らない翼が十一月という半端な時期に顔を見せ、サラリーマン二年目の給料から妹のスマートフォンを買ってやろうとしたのは、まさに、自身の浮気のアリバイ工作のためだった。
兄は本人が知らぬ間に浮気相手と一緒いる写真をネット上に上げられ、それを本命の彼女である玲に目撃されてしまった。そこで、浮気相手と年格好の似た妹を使い、浮気の事実を隠蔽しようと画策したのだった。
浮気相手の女子大生の画像は、実物の面影も朧な加工盛り盛り状態の代物で、兄は別人の妹が彼女に扮してもじゅうぶん誤魔化せると、自信満々であったが…。
「あの、わたしは兄に言われて、今日ここに来ただけなんですけど…」
嘘をつくなら、最小限で済ませろ。遠い昔に観た刑事ドラマの教えだ。
「髪まで染めて?」
「あー…、髪は結構前から、この色ですけど?」
「そうなの?学生証では黒かったから」
真実、祐衣は交際相手の実の妹でしかなく、彼氏本人でも浮気相手本人でもないというのに、こうも詰問されるとは予想外だった。翼の浮気を完全に確信してしまっている玲は、兄妹が仕掛けた小芝居に余計に怒りを煽られているのだろう。
そもそもの当事者ではない祐衣には、玲の怒りはもっともなものに思え、このまま一番責められるべき人物不在のまま嘘をつき続けるべきなのか、心中では迷いはじめた。
だが、玲の方はしばらくの間、半分睨むように祐衣を見た後、突然、「もういいわ」とカップに入ったコーヒーを雑にあおり、椅子から立ち上がった。
「え、もういいって…」
「お兄さんがどういう人間か、わかったってこと。妹さんも、ご苦労さまでした」
玲がカップを持つ手とは逆の手で持ち上げようとしたトートバッグの肩紐を、ソファから腰を上げた祐衣が目敏く掴んだ。
「ちょっと、なにするの?!」
「おにい…兄が、わたしを使ってまで誤魔化そうとするの、必死だからだと思うんです!玲さんと別れたくなくって!」
「やめっ、バッグが、わかった、わかったから!話聞くから!」
玲は渋々バッグを足元のカゴに戻すと、さっき立ったばかりの椅子に浅く腰かけた。
「びっくりした…。突然、なんなの?」
少し乱れた髪を押さえながら、玲は祐衣に聞いてきた。
「その、浮気はともかく、本命は玲さんなんです」
「そうだとしても、私、浮気されるのも浮気する男も、両方嫌いなんだけど」
「でも、兄が玲さんと別れたくないって気持ちは、本当だと思います」
玲は残りのコーヒーを飲み切った後、さっきまでの疑る表情とは別の、ただただ呆れた顔で祐衣を見た。
「妹さん、翼くんと私が別れるの嫌みたいだけど、なんで?私、ずっとキツイ態度だったし、あなたに好かれる様なことしてないけど?」
「玲さんが、兄よりも年上だからです」
それだけでは、誰も何も納得できる内容ではなかった。祐衣は続けた。
「仕事ができるからです。大人で、しっかりしてるからです」
頼りない所のある兄を支えてくれとでも、言いたいのか?玲はそんなあたりをつけた。
「かわいいじゃなくて、きれいだからです。背が高いからです。スカートよりも、パンツが似合う人だからです」
玲はわからなくなってきた。そうして結局、祐衣の答えは玲の予想外のものだった。
「わたしに、全然似てないからです」
「わたし、お兄ちゃんには絶対、自分と同じくらいの年の、似た背格好の、雰囲気の、そういう彼女と付き合って欲しくないんです。付き合うだけならともかく、結婚とかなったら、もう、本当に、絶対に、死んでも厭。そんな人が一生お兄ちゃんのお嫁さんとか、ありえない。それなら、なんでわたしじゃ駄目なのってことですよね?絶対わたしがいちばん、ずっと前から誰よりも、お兄ちゃんを好きなのに?!」
向かいの席に座っていた女性が去ってから、もう十分以上は経っただろうか?祐衣は、テーブルのスマートフォンを手に取り時刻を確認するだけの気力すら、湧かなかった。
彼氏の妹の独白を一通り聞き終えた後、席を立った玲は、たぶん、当初の予定通り兄をふるのだろう。その理由は浮気を許せないからか、それとも、浮気の事実を隠そうとした翼に愛想をつかしたからか、はたまた、兄に重すぎる愛情を抱く妹の存在を知ったからか。案外、三番目の理由が決定打となるのかもしれない。
兄と玲との関係はともかく、玲に自分の心の内を暴露してしまった今、兄と自分の関係は今後、どうなるのだろうか。
多分、何も変わらないのだろう。自分の告白を聞いていた間の、玲の顔。「カカワリタクナイ」の文字が貼り付いていた。
祐衣はかったるい手つきで、ようようスマートフォンを手に取ると、「失敗した」というだけの短いメッセージを、まだ勤務中であろう何も知らない兄に送った。その直後に祐衣のスマートフォンを鳴らしたのは、翼からの返信ではなく、夕飯の要不要を聞くためだろう、何も知らない母からの電話だった。
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