舌先の美

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舌先の美

花の香りを纏った艶のある夜のような黒い髪に、黒々と濡れた切れ長の瞳に奥の透き通りそうな白い肌の美しい(ひと)だ。 三時間はある洋画の流れるテレビの画面を真っ直ぐに見つめ、物語の大きく波打つシーンで静かに涙を零す彼女の横顔を見つめる俺は、美しさと言うものを強烈に理解する。 ほの赤く染まった鼻が、スンと微かな音を立て、白く細い指先が空を掻く。 俺はソファーの背もたれから背中を離し、大きく口の開かれたスナック菓子や一リットルのペットボトルで埋められたローテーブルの片隅に押しやられた箱ティッシュを取る。 ゆらゆらと揺れ動く彼女の指先の下に箱ティッシュを滑り込ませれば、彼女は鼻を鳴らして二枚三枚とまとめて抜き取った。 「うっ」 短い呻き声の後に、鼻をかむ彼女は、そのままテレビ画面を見つめた。 もう暫くすれば、エンドロールが流れ出す。 一度と言わず、二度三度と見たことのある映画で、俺の涙腺は機能することはなく、寧ろ、映画よりも彼女に視線を引き寄せられ続けた。 彼女とテレビ画面、圧倒的に前者を見ている時間の方が長いまま、映画が終わる。 最初こそ、コロコロと鈴を転がすような音で笑っていた彼女も、すっかり目尻を染めていた。 笑う時には、口元に細い指先を添えていたが、泣く時には顔を覆うことはなく、涙を流した後の目尻を指先で弾くのみだ。 良く見える泣き顔が、笑った顔よりも艶かしいことに気付くのは必然だろう。 エンドロールの流れる画面から目を逸らした彼女は、もう一度俺が持ったままの箱ティッシュから今度は四枚抜き取り、鼻をかむ。 鼻の頭の赤みが強くなっている。 「私、こんなに有名な映画なのに、見るの、初めてで……」 「知ってるから、気にしなくて良いけど」 彼女の丸めたティッシュを受け取り、ソファーの足元に置いていたゴミ箱へと放り投げた。 長い睫毛に小さな涙の粒を付けた彼女の瞳は、淡い光を宿してチラチラと光って見える。 視界がボヤけるのが不愉快なのか、彼女は指を緩やかに握り込み、目を擦ろうとした。 俺は箱ティッシュを放り、その細い手首を掴む。 俺の親指と人差し指がピッタリとくっ付く程に細い手首は、体温の低さで冷たく感じる。 彼女は華奢な肩を大きく跳ねさせると、赤くなった目を俺に向けた。 「擦ったら、余計赤くなるだろう」 「ん……」 鼻を鳴らす彼女が頷いたのを見て、俺は手首を離し、その手で彼女の目元に残る水気を払う。 しっとりとした潤いのある彼女の肌は、俺の指に吸い付くようだ。 触り心地の良さに、つい、目元だけではなく涙の跡の残るまろい頬まで触れてしまう。 指の腹と爪の先で擽るように撫でれば、彼女は猫のように目を細め、くふくふと控えめに笑った。 口を開く訳でもないのに、緩い弧を描く唇を手の平で隠す彼女。 美しい彼女は、動作も美しさを孕むらしい。 先程まで、感動で涙を流していた彼女が、今は子供のような無邪気さを見せて笑っている。 その姿に、もっと触れたいと思う。 頬を撫で回す手で、垂れる横髪を形の良い耳に引っ掛ければ、俺達の間に漂う雰囲気が変わる。 和やかな空気が、官能の色を孕んだ。 彼女が緩慢な瞬きの後、目を閉じ、白い瞼を晒す。 俺は身を乗り出し、彼女の頭に手を回した。 彼女の方も引き寄せ、互いの唇を合わせる。 化粧っ気の薄い彼女の唇は、サラリとし、弾力を持って俺の唇を受け入れた。 触れるだけの音のないキスだ。 角度を変え、何度も唇を合わせれば、自然、彼女は緩く唇を開く。 微かな隙間に、俺は舌先を滑り込ませた。 彼女もまた、答えるように舌を合わせたところで、俺は静電気でも起きたように彼女から離れる。 彼女の両肩を掴み、腕の長さ分距離を取った。 彼女が目を開き、焦点の曖昧な瞳で俺を見たが、直ぐに「あっ!」と喉を締めた短い悲鳴を上げ、素早く口を押さえる。 彼女もまた、距離を取ろうと背中を逸らした。 「わ、かっちゃった?」 ぎこちなく、彼女が小首を傾げる。 俺もまた、油の足りない機械のように、ぎこちなく頷いた。 「舌……それ、何だ、あれ、蛇の」 「スプリットタンだね」 上手く言えない、頭の足りなさそうな俺の言葉選びに対し、彼女はサラリと言った。 今日は天気が良いね、位のノリで。 その上、普段は控えめに隙間程度にしか開かない口を大きく開け、その口内を見せ付けた。 白い歯が行儀良く並んだ、虫歯一つ、口内炎の一つもなさそうな口内環境の良さそうな口内だ。 しかし、ぬらりと唾液の光る舌は、丁度真ん中の辺りから舌先に掛けて真っ二つになっていた。 「うわ」 驚いて声が漏れる。 左右で別の動きを見せる舌先は、俺の言った通りに蛇を思わせた。 存外に滑らかな断面を見るに、まるで最初からそうだったかのようだ。 つい、手を伸ばし、彼女の舌を突っつく。 彼女は喉奥を震わせるようにクツクツと笑い、その左右に割れた舌で俺の指を絡め取った。 「わっ、わ」短い歓声を幾つも上げる。 唾液を纏った舌先で舐め上げられると、腰の震える感覚を覚えてしまう。 霧散したと思われた官能の空気が俺達に纏わり付くが、彼女が俺の指から舌を外し、その舌を口の中に戻して口を閉じた。 いつも通り、お上品に、お行儀の良い、淡い笑みを浮かべる彼女の口だ。 その姿を見て、俺は「あ」とまた声を上げる。 彼女は転がった箱ティッシュから一枚抜き取ると、唾液で光る俺の指を拭う。 「もしかしなくても、今までの笑う時とかの仕草って」 「うん。バレちゃったね」 拭った指先に唇を寄せた彼女が、態とらしいリップ音を一つ響かせてキスする。 バレた、と言う割に気にした様子もない。 「だって、ねぇ?あんまり見せ付けるものでもないでしょう。見たくもないだろうし」 「歯医者とかどうしてんの」 「歯医者さんに行かなくて良いようにしてる」 にー、と白い前歯を見せ付ける彼女に、だろうな、と思い頷いた。 先程見ても、虫歯になったような歯は見付けられなかったのだから。 彼女は笑った際に垂れ落ちた横髪を耳に掛け直しながら、俺を下から覗き込む。 目尻の赤さは変わらずに、しかし、黒い瞳は濡れたままだ。 濡れて光を纏う瞳も、髪と同じように夜を思わせ、夜空を写し取ったようにも見える。 「嫌?」 彼女は小首を傾げて問い掛けた。 相変わらず黒い髪が揺れる度に花の香りが鼻腔を擽り、瞬きの度に震えるように睫毛が揺れる。 白い肌は熱を覚えて朱色を差していた。 相も変わらず、美しい女である。 ただ一つ、結ばれた口の中に小さくも大きな隠し事があったが。 俺は彼女の腕を引き、彼女が胸元に倒れ込んだタイミングで「全然全く、これっぽっちも」と答える。 彼女が顔を上げようとするも、俺はくるりと片腕で彼女の体制を変え、横抱きに持ち上げた。 「ひあ」高い悲鳴を上げる彼女と目が合えば、彼女は口を覆うことなくコロコロと笑う。 俺と彼女が部屋を変え、後にするリビングのテレビ画面では、映画が終わり、エンドロールも終わり、DVDのスタート画面に戻っていた。
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