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第零章段
――春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎは すこしあかりて
紫だちたる雲の細くたなびきたる
「少納言。何を書いているの?」
突然、背後から声を掛けられ、少納言と呼ばれた女性は筆と草紙を取り落とした。板敷の床の上をころころと筆が転がり、仮名文字の文章が書かれた頁が開かれたまま、草紙がばさりと音を立てた。
「あ、て、定子様……。いえ、これは日常の些末な出来事を書き記しただけでして……」
彼女がしどろもどろになりながら言い訳の言葉を探す様子を傍目に、「定子様」と呼ばれた少女がしゃがみ込み、筆と草紙を拾った。草紙に書かれた美しい春の情景。それを少女はじっくりと眺め、雰囲気に浸るように目を細め、柔和な微笑を浮かべる。
「少納言、あなたの言葉はいつも美しいわね。この表現だけで、目の前にありありと風景が思い浮かぶわ。この前の『香炉峰の雪』の出来事といい、あなたは本当に素敵な人ね」
少女は少納言を褒め称えながら、筆と草紙を彼女の手に返した。少女があまりにも称賛の言葉を浴びせるので、少納言は照れて頬を赤らめ、顔を伏せてしまう。
――これは長徳1年(西暦995年)。内裏、登華殿の渡殿(渡り廊下)。春の未明に起きた出来事。
定子様から賜った草紙に何を書こうかと悩んでいた清少納言は偶然、朝早くに目覚めてしまい、東の山の空が段々と明るくなっている様子に美しさを感じ、思わず草紙に筆を滑らせた。そこに偶然、目覚めた定子が彼女に出くわしたというのが、事の顛末。
彼女が書き記した表現通りに、朝日がゆっくりと立ち昇ってきた。白く眩い輝きが宮中を覆う。
「――ねぇ、少納言」
定子に声を掛けられ、清少納言は顔を上げる。逆光で主の顔はよく見えなかったが、その様子はどこか哀愁を漂わせていた。
「何でございましょう。定子様」
「この景色は永遠に変わることが無いのよね。朝、起きたら必ず太陽が昇って、私達や宮中を照らしてくれる。勿論、雨さえ降らなければだけど……。例え、私が死んだとしても……。例え、藤原が滅びたとしても……。この景色は後世までずっと続いていくのよね……」
「滅多な事を仰らないでください!」
少納言が定子の言葉を諫める。だが、気持ちは分からなくもなかった。彼女の父親であり、現在の関白である藤原道隆公が病で臥せっていることは宮中内では周知の事実だったからだ。大事な人が亡くなってしまう不安、いつもの平和な生活が崩れるかもしれない不安。彼女はそういった不安と内心では必死に向き合っている。その事は、いつも定子の側にいる清少納言には自分までもが心が痛くなる程に伝わっていた。自分が主の為に出来ることがあるなら……と清少納言は切に思っていた。
深雪のような純白の定子の頬。そこにつーっと一筋の涙が伝う。美しく澄んだ瞳が明るく輝いている太陽の光を反射して、水晶の様に煌めいている。
そんな彼女の様子を見て、少納言の口から思わず言葉が出た。
「私が書き留めます。この草紙に……」
「え……?」
突然の脈絡のない台詞に定子は首を傾げた。少納言の顔は儚さを感じさせる定子の顔とは対照的に何かを決意したような真剣な顔つきだった。
「草紙は……草紙に記された言葉は永遠です。定子様の幸せな日常を草紙に書き留めておけば、いずれ、いつか遠い未来で誰かに読まれた時に思い出を蘇らせることが出来ます。あなたの大切な思い出、定子様の尊厳を……守ることが出来る」
その言葉を聞いた定子はただ頷いた。そして、先程までの悲しげな表情が嘘だったかのように顔がほころんだ。その笑顔は、少納言がこの世で出会った笑顔の中で最も美しく感じられた。
「その役目、あなたに任せても良いかしら? 私がこの世で最も信頼している人、そして、一番に愛している人、清少納言。この役割はきっと貴方にしか託せない。その草紙と筆、そして、あなたの才能と機知を以て私の大切な想いを守って欲しい。私の唯一の願い、聞き入れてくれる?」
定子は少納言に片手を差し出した。迷うまでもなく、清少納言は定子の手を取り、両手を重ね合わせて握りしめた。
「はい。この命が尽きようとも、あなたのことをお守り致します。定子様は私にとっての一番ですから、生涯の忠誠を誓います」
少納言の答えに満足そうな表情を浮かべた定子は、何かを思い出したようにくすっと笑った。
「『一乗の法』の時は『一番に愛されていなくとも満足です』と言っていたのに……。今日の貴方は何故か素直ね」
「あ、あれは昔のことですから……!」
そう言って、二人は笑い合った。明るく朗らかな笑い声は登華殿中に響き、その声で他の女房や女官が起き始め、慌てて支度を始めるのだった。
そして……。
――同じ年に道隆が亡くなり、長徳2年(西暦996年)、定子の兄の伊周が花山法皇を誤射し、大宰府へ流される。そして、藤原定子は一条天皇の寵愛を受けたまま、24歳で崩御。藤原彰子が中宮、皇后となり、藤原道長の娘たちが次々と天皇の子供を産み、政権は完全に藤原道長の物となった。
しかし、万寿4年(西暦1027年)藤原道長が死去。その子供、藤原頼通は天皇との外戚関係を築くことが出来ず、後三条天皇の御代から藤原の権威は失墜した。
そして、時代は流れ、鎌倉、室町、戦国、安土桃山、政治の舞台は江戸へと移り変わり、明治、大正、昭和、平成、令和……。
日本の中心は相変わらず東京であり、長き歴史の間で多くの才能が生まれ、没し、多くの物語がこの世に生まれた。
――そして、冒頭の出来事から1100年後の2090年。
冒頭の場所と同じ「京」の地で、物語は再び紡がれる。
これは、全ての創作者に捧げる物語。
そして、大切な人を守る為の物語。
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