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「諾子、お前、もう四月から大学二年生だろう。就職とか進路とか……、色々と考えておるのか?」
父親の清原元輔が実家から諾子へとかけてきた電話の第一声がそれだった。諾子の実家は山口県にある。しかし、諾子は大学進学を期に京都の衣笠付近の学生寮で暮らしていた。現在は三月中旬、大学は春休み期間。あと数週間で諾子は大学二回生となる。就活自体はまだ先とはいえ、就職や進路については少しずつ考え始めなければならない時期だということは諾子も自覚はしていた。だが……。
「流石に……まだ、考えられないよ。私が何をしたいかなんて……」
諾子の口から出たのは、このような弱気な言葉だった。部屋の隅に体育座りで蹲りながら、長い黒髪の端を指で弄ぶ。元輔は彼女の答えをある程度は予測していたのだろう。
「そうか。まだ、引きずっていたのか……。あの事を」
元輔の問いに彼女は答えなかった。
「……」
「……」
しばらく続く沈黙。諾子は
(どうせ、『もういい加減に目を覚ませ! 早く前を向いて生きるんだ』って頭ごなしに叱りつけるんでしょ……)
と父親からの次の台詞を予想し、不貞腐れた。高校の時に山口の実家で散々に言われてきた言葉だからだ。この台詞を言われる度に、彼女の心には言葉に出来ない苛立たしさが募った。実家から離れた一つの要因は、父親の小言や説教から逃げる為だった。
だが、沈黙を打ち破るかのように父が発した台詞は、彼女の予想した台詞とは少し方向性が異なっていた。
「なぁ、諾子。お前さえ良ければだが、紹介したい仕事があるんだ。家庭教師のバイトだが、お前の働き方次第では一流企業の正社員になれる。嫌だったら、すぐに辞めてもいいし、家庭教師のバイトだけ引き受ける形でも良い。取り敢えず、儂の伝手で面接だけは受けさせてもらえるように取り計らってはいるから……」
「はぁ? 何それ。勝手に話、決めんなよっ! 糞親父!」
父親からの一方的な通達に、諾子は声を荒げた。流石に戸惑いを隠し切れない程の唐突な話だったのだ。
「そもそも、何で家庭教師のバイトをやることが一流企業の正社員になることにつながるのよ! 訳が分からないんだけど……」
しかし、次の父親の台詞に諾子は口を噤んだ。
「……藤原グループ。この名前を聞いても簡単に断ることが出来るのか?」
その名前は大学生の諾子は勿論、日本中、いや世界でも名前を知らない人間は少ない有名な大企業。諾子のように就活に積極的でない大学生でさえも「藤原グループの内定は取れるものなら取りたい」と考えている程だ。京都に本社を構え、「食品・不動産・鉄道・電子機器・医療福祉……その他ありとあらゆる分野」で活躍する総合商社で、この会社に入社する者は「やりがい・高給・ホワイトな環境」という就職における三種の神器を手に入れる事と同義……という話は就活を控えた学生なら誰でも知っている。
「それが本当の話なら、願ってもない程の棚牡丹な話だけど。なおさら分からないわね。何故、藤原グループで働くことが『家庭教師』につながるの? 塾とか予備校にまで手を広げたって話は聞かないけど。それに、アタシなんかが教師なんて出来る訳ないじゃん……」
「いや、お前の進学した大学は世間では十分、高学歴の扱いだからな。それにお前、文学部だっただろう? 文学部なら英語か現代文、古文は今でも勉強しているんじゃないのか? 大学の成績表見たけど、GPAも高いし」
「勝手に見んなよ! それに……」
(自分は人に物を教えられる技術を持っていない! 責任取れないよ!)、(いや、大学の勉強と受験の勉強って全然、範囲違うから!)……etc。考え得る限りの断り文句を台詞の後に続けようとした諾子だったが……。
「まぁ、詳しい話は明日の面接で企業の人に聞いてくれ。明日の午前七時に京都駅に来てくれということだ。まぁ、頑張れ。いつまでも、兄の事を引きずるな」
ピッ……ツーツーツーツー
電話が唐突に切られた。何かを言い返してやりたかったし、まだ仕事の具体的な説明もされていないことに文句の一つも言ってやりたかった。しかし……。
(兄の事を引きずるな……)
その言葉に諾子は何も言えなかった。通話する相手が消え、真っ黒な画面となったスマホを苛立ちに任せて壁に投げつける。
ガツッと鈍い音を立て、スマホは床に落ちた。
「何なんだよ……もう……」
震えた声、そして目はすぐにでも泣き出しそうな程、潤んでいる。清原諾子は蹲ったままの体勢で目を閉じ、そのまま眠りについた。
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