またね。

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ふらふらとギターの音色を追っているうちに、今まで足を踏み入れたことのなかったエリアに来てしまっていたようだ。 でも、そのギターに惹かれても仕方ないと思う。 この季節、街中でもホテルでも、そこかしこでクリスマスソングが流れているものだけど、エレベーターを降りた私の耳に届いたのはアコースティックギターのシンプルなクリスマスソングで、世に溢れている賑やかなものとは全然違ったのだから。 エレベーターホールではほんのかすかに聞こえる程度だった曲は、追っていくうちに少しずつ大きくなってきて、私はそれを辿ることに夢中になってしまった。 そのギターの在り処と思しき部屋を発見し、そこでやっと辺りの風景に目をむけたとき、自分が思いきり迷子になっている事実を思い知ったのである。 ………やばい、どうしよう。 冷や汗が滲んできそうだ。 目の前にあるのは、どう見ても一般客向けではなさそうな重厚な両開きの扉。 その品格のある扉が片側だけ開いており、そこからクラシックギターが鳴っていた。 ………そういえば、昔ママとパパが話していたかもしれない。ホテルで結婚式を挙げたり、よく利用している常連客だけが利用できる特別な部屋があると。 当時子供だった私にもわかりやすいように ”部屋” と言ったのだろうけど、今ならそれが ”ラウンジ” と呼ばれているのだとわかる。 広いホテルなのですべてを把握しているわけじゃないけど、以前ちらっと眺めたフロアマップでは、確かその特別ラウンジはバーの隣に位置していたはずだ。 お酒の出るスペースなのでこれまで私には馴染みがなく、記憶しているフロアマップもそのエリアに関してはあやふやだった。 迷うべくして迷ったというわけだ。 ………どうしよう。引き返したらロビーへの行き方もわかるかな………いや、ここに来るまでに何か所か曲がり角があったから、下手に動いておかしなところに出てしまったらまずい。ただでさえ制服姿は目立つのに…… 焦る私。 そんな私にお構いなしに流れてくる、ギターの調べ。 そのゆったりとした曲調は、私の内心とは真逆だった。 途中途中、なんて言うのかは知らないけど軋む感じのアコースティックギター特有の掠れた音色が響いて、それが切なさを醸し出してきて。 有名でよく知ってる曲のはずなのに、どうしてか私は、初めて聴く曲のような気がしていた。 道に迷ったことも忘れてギターが奏でるクリスマスソングに魅了されていると、しばらくしてそこに男性の歌声が静かに混ざってきた。 爽やかな、でも落ち着いた感じの、誠実そうな声。 本気で歌っているのではなく、軽く口ずさんでいるような歌い方なのに、情感こもった、聴き入ってしまう歌声だ。 ………プロの人? クリスマスシーズンは音楽関係のイベントも多いし、ホテルではディナーショーやクリスマスコンサートも開催されていたはずだから。 もしかしたら、この部屋は出演者の控室に使われているのかもしれない。 だとしたら、私みたいな一般人が来ちゃいけない場所だったんだ。 私は迷子になったのとはまた違う意味で焦りはじめた。 ここは気付かれないうちにそっと離れよう……… そろりそろり後ずさりすしていったものの、私の真横から突然パッと走る影があった。 「あ!クリスマスの歌だ!!」 私の横から飛び出てきたのは小さな男の子で、彼は嬉しそうに叫んだ。 すると、ぴたりと、アコースティックギターと歌声が鳴り止んだのだった。
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