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「先にチェックインしてくれても構わないって、いつも言ってるのに」
案内を待つ間、ロビーのソファに腰をおろしながら妻に言った。
「だって、ここの宿泊代は会社が負担してくれてるんでしょう?だったら、あなたがいないのに私達だけで勝手にお部屋に入るのは気が引けるのよ。……これも、いつも言ってることだけど」
妻の言う通り、確かにこのホテルの滞在費は会社持ちとなっている。
俺が勤めているのは総合商社で、海外単身赴任中の社員が帰国する際、地方、郊外に自宅のある者は、家族全員分の一泊分のホテル宿泊費を出してもらえるのだ。
ホテルに関してはある程度は社員の希望を聞いてくれることもあり、おおむね奥様方からは好評らしい。
もちろん妻もその一人で、嬉々としてこのホテルを選んでいた。
このホテルにあるレストランで、結婚前の俺達はよくデートしていたのだ。
七年前に結婚し、翌年妻が妊娠したのを機に通勤可能な郊外に家を建て、息子が生まれてすぐに海外赴任となってしまったのだが、妻からは一度も不満の類を聞いたことはない。
控えめで、”内助の功” という言葉以上に、俺を支え続けてくれていた。
そんな妻だから、俺よりに先にチェックインしないというのも彼女らしいと言えるだろう。
けれどこの時季はインフルエンザも流行っているだろうし、小さな息子も一緒なのだから、部屋で寛ぎながら待っていてほしいというのが本心ではある。
「あとそれから、ここに座ってあのツリーを眺めるのが毎年楽しみなのよ」
妻が視線で指した先には、大きく見事なクリスマスツリーが飾られていた。
このホテルのツリーは本物のもみの木が使われていて、クラシックでもあり、華やかでもあり、ホテル内だけでなくこの界隈でのクリスマス名物となっている。
独身時代、妻とも何度か見にきたものだ。
そのツリーを今こうやって息子を交えて三人で眺められるなんて、大袈裟でなく、胸を震わせるほどの幸せだと思った。
遠く離れて暮らしているから、余計にそう感じてしまうのかもしれない。
俺は思わず愛おしさがあふれてしまいそうになり、膝の上にちょこんと座る息子の頭を、優しく撫でてやった。
「そういえば、さっきツリーの前で女の人とぶつかったんだって?」
タクシーの中で受信した妻からのメールを思い出して、俺は息子に尋ねた。
妻のメールによると、大きなツリーに興奮した息子が一目散に駆け出し、見知らぬ女性に体当たりをするようにぶつかってしまったらしい。
幸いどちらにもケガはなく、相手の女性も笑って許してくれたそうだが。
”どうして知ってるの?” と言わんばかりの表情で俺を振り向いた息子は、次に妻を見て、
「ママが話したの?」
と、クレーム調子で言った。
俺はその口調が可愛らしくて口元が緩んでしまうが、ここは父親として注意すべきと軽く咳払いをした。
「ダメだぞ。その女の人は大丈夫だったそうだけど、もしお前がぶつかった拍子に倒れたり、どこかケガでもしてたらどうするんだ?今日はぶつかった相手が大人だったから大丈夫かもしれないけど、もしぶつかったのがお前より小さな子供だったら?反対に、おじいさんやおばあさんだったら?もう何度も ”歩く時はちゃんと前を見なさい” って言ってるだろう?前に会った時にパパと約束したよな? ”勝手に一人で走り出しません” って。約束を守れない子はサンタさんのプレゼントが届かないかもしれないぞ?」
すると、みるみる瞳を揺らして今にも泣きだしそうになる息子。
それでも泣くまいと堪えて、俺の上着を小っちゃな手で掴んでくる。
毎日テレビ電話で顔を見ていたとはいえ、こうやって直接触れる我が子は、やはり以前会った時よりも成長しているのだなと、強く感じた。
「ごめんなさい……」
そう言って唇を噛む息子に、俺は「よし」と笑いかけてやる。
「今度から気を付けるんだぞ?」
途端に、息子が笑顔に変わった。
「うん!ぼく、気をつけるよ!」
息子は百点満点の返事をしたが、ちょうどベルマンの俺を呼ぶ声と重なってしまい、そのタイミングの良さに、俺達家族は顔を見合わせて笑ったのだった。
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