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第1章 26話 ファースト
「離れてくれませんか」
静かで柔らかい口調なのに、やけに冷ややかに取れる声音。
聞いたこともないその声に、ミズリーはエスターの唇を避けるように振り向く。明るいフロアーの光を背に浴び逆光の中、男が現れた。
カツカツと気持ち良いくらいに靴底をテラスの石タイルに打ち付け近付いてくるそのシルエットは、やがて周囲の暗闇を溶かし込むように髪の色、服の色を混ぜ現していった。
「え……アレン様……」
ミズリーの無意識に溢した名に、エスターもギョッとしたように振り向いた。
いつものロイヤルスマイルを浮かべたアレン王子は、さらにニコリと笑みを深める。
ミズリーもよく見かけるその表情なのだが、先ほどの声といい、なぜか見慣れない聞き慣れない気がしてならない。
「こ、これはっ! アレン殿下」
近付き過ぎだったエスターの顔がやっと離れたのだが、ウッカリ忘れてるのかビックリしすぎて意識がいってないのか、腰に腕が巻き付いたままである。
「確か、ローゼンガルデン侯爵家嫡男エスター・オファリム殿ですね」
スラスラとエスターの身を告げるアレン王子に、ミズリーは惚れ直した。
(さすが王太子!! こんな大勢の中のひとりの、顔も名前も爵位もよくご存知でっ!)
ミズリーにとっては今聞いたものすらも、右から左へ流れるようにツルリンと抜けていくのだが。まあそもそも覚える気もないのであるが。
「はっはい! お目にかかれて光栄ですっ! まさかっ殿下からお声をかけていただけるなんてっ!」
さっきまでタコのようにまとわりついていたエスターの体が、ピシッと芯が差し込まれたかのように直立不動となる。
それを笑顔で受け止め、アレン王子は口を開いた。
「その手を離してくださいエスター・オファリム殿。彼女は僕の専属騎士でして、まだ仕事中なのですよ」
「え? え?」
エスターは慌てたようにひとり分隙間を空けて、同時にミズリーと王子を交互に見比べる。
だいぶ混乱して、「え? そうだったの? 早く言ってよ」的な表情を向けてくるが、ミズリーも内心「え? え?」状態なのである。
(やばいっ! 私、任務続行中だったの? え? 午前勤務だけじゃなかったっけ?)
「それと、僕の間違いでなければ彼女は迷惑していた様に見えましたが。どうですか?」
そこで本日初めてアレン王子と視線がバチコンとぶつかって、何故かミズリーは怯えるように何度もウンウン頷いた。
「こ、これは大変失礼いたしましたっ。あまりにも魅力的な方に出会って、わたくしも有頂天になりすぎてしまったようで……」
ミズリーは思わず横目でエスターを見やった。
こんな状況で、この国の王太子に若干説教臭を漂わされている状況で、キザを貫けるその精神、むしろ尊敬する。
「そうですね。彼女はとても、美しいですから」
目を細めて微笑む王子にその言葉に、真っ赤にゆで上がりつつもちょっとホッとしたミズリーは、やっと周囲の様子が見えてきた。
眩しい室内のフロアーの者達が皆、こちらに注目していたのだ。
(あれ?)
誰も踊っていない。音楽もなぜか止まってしまっている。
なぜ華やかな場所に立つ人達が、この外のテラスに注目してるのか。いや、テラスではなくてアレン王子だ。
きっと、さきほどまで踊っていたのだろうユリーシア様やエスターの妹もこちらを伺っている。
「あ、あの、アレン様。もしかしてわたくし、悪目立ちしてご迷惑を? 皆様と踊っていらっしゃったのでは?」
「気にしなくていいよ。僕も踊りすぎて目が回っちゃってね。休憩するところだったから。そうだエスター・オファリム殿」
なぜか毎回フルネームで呼ばれるので、その度にビクッとする真横のエスター。
「はいっ」
「あなたの妹ぎみも少々お疲れのようです。今夜はゆっくり部屋でお休みになられてはいかがですか?」
「もったいないお言葉、ありがとうございます。またぜひ次回も機会があれば殿下とお話を。どうぞ妹共々よろしくお願いいたします」
エスターはそう言ってから、なぜかチラリとミズリーを見つめてきた。
何か言いたげだが、何も言わずフロアーへと足早に向かっていった。
ホッと溜息をつきかけて思い止まる。たくさんの視線が向いたままだった。
「ミズリー」
「あ、はいっ」
「行こうか」
「え?」
どこに、と聞く間もなくワイングラスを取られ、腕を引かれてフロアーに引っ張られる。
「げっ」
思わず洩らしたがしかたないだろう。
よりにもよって大注目の渦の中に、飛び込んでいく状態なのだから。
視線を浴びる中、グングンとアレン王子に腕を引っ張られたまま白の間を横切る。そして王子は、通りすがりの給仕人にグラスを渡すとそのままフロアーを出てしまった。
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