「壁一面に絵を描きたい」

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「壁一面に絵を描きたい」

「そんなこと出来る場所・・・ないよね。」 女性は、細い腕で脚を抱え込み、部屋の隅でうずくまっていた。 「わかりました。」 「・・・え?」 「こちらです。」 私はそれだけ告げると、部屋を出た。すぐ後ろから、彼女がパタパタと走ってくる音が聞こえる。 「あのっ・・・何処へ行くんですかっ・・・?」 追いかけてきた彼女は、汚れた鞄を抱えていた。 私は目を合わせずに答えた。 「あなたの願いを叶えられる場所です。」 「・・・ここって・・・」 女性は目を見開いて、そびえ立つ塀を眺めている。 「あなたが以前通われていた学校です。」 真実を告げた瞬間、鞄がグシャッと潰れて落ちた。 「お気に召しませんでしたか?」 「・・・どうして・・・どうしてこんな所に連れてきたのよ!!!ふざけないでよ!」 無感情の私を睨んで、彼女は叫んだ。 「こんな場所に絵を描くなんてっ!ここはっ・・・私にとって最悪な場所なのに!」 髪をグシャグシャに掻きむしる彼女に、私は静かに告げた。 「そうやって 逃げてきたのではないですか?」 「っっ・・・!!」 「理由をつけて、ご自身のお気持ちから逃げてきたのではないのですか?」 「・・・・・・。」 威勢が一気に消沈し、女性は肩を落として俯いた。 「・・・ごめんなさい。つい カッとなってしまって・・・。」 「慣れてますから。」 突き放しはしない。その代わり、同情もしない。 陰りも潤いもない瞳で、私は彼女を見つめる。 「・・・せっかく来たんだもんね。」 彼女は、潰れた鞄から、パレットと筆をかき集めると、塀を見上げた。 現れたのは、夜の海だった。 青と緑が互いを受け入れるように画面を埋めていく。月明かりに照らされた水面は、細かい銀色の螺旋を入れることで見事に表現されていた。 「海は・・・続いていく」 一人呟きながら、彼女はいつしか指で色を混ぜ、壁に塗っては引き伸ばしていった。 指先から腕、汗を拭う頬まで、言い表せない奇妙な色に染まっていく。 それと対比するように、彼女の顔は自然と笑っていた。 「・・・我慢してたんです。今まで。」 水しぶきの縁取りをしながら彼女は語った。 「ある時は『忙しいから』。ある時は『才能がないから』。またある時は『周りが許してくれないから』。でも本当は・・・変わることを恐れて行動しなかった自分の責任を、誰かに押し付けていただけだったのかもしれません。」 自分は、自分でしか動かせないのにね・・・と、無理に笑顔を作って俯く。 「もう、心配する必要はないですよね。」 「そうですね。」 再び作業に取り掛かる彼女を直立不動で見守っていると、鐘の音と共に同じ服を来た学生達が校舎から飛び出してきた。 「・・・うわっ、何これっ」「工事?」「ストリートアート?凄くない!?」 一瞬で増えた観客も、途切れないシャッター音も、彼女の世界には入れない。彼女は夢中で壁と向き合っていた。 「・・・出来たっっっ・・・」 彼女が壁から飛び降りると、壮大かつ無限な海が壁一面に広がった。 数百人もの拍手喝采と、シャッター音が鳴り響く中、彼女は深く一礼した。 「こらーーー!!!何やっとるんだーーー!!!」 困惑と焦りをあらわにした教師達の怒号をかいくぐるように、彼女は鞄を抱えて私の元へ帰ってきた。 「あの絵は、消されてしまうのでしょうか・・・」 「分かりません。」 「・・・そうですよね」 手を洗いながら、彼女は自然に笑った。 「・・・でも・・・嬉しかったです。」 彼女は、透き通った目で私を見つめる。 「ありがとうございました。」 あの時のように、深くお辞儀をした彼女を残し、私は去った。 彼女の一生のお願いは  ずっとずっと思い続けていた願いだった。
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