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「お前の人生、なかなかハードモードだな」
「そうでもないよ。母さんは大変そうだけどね。離婚してから看護師の資格取って働いてる。僕もバイトでもしようかって言ったら「あんたは好きなことすればいいの」って言ってくれたんだ。この境遇にしては恵まれてるほうかも」
岡嶋は、へらりと笑う。
「僕ね、教師になりたいんだ。僕みたいに金銭的に厳しくても、きちんと勉強できるように手伝いたくって。そうすれば、夢の選択肢を増やせると思うから。僕が母さんや鬼沢くんに助けてもらったみたいに」
黙ってこちらを見ている陸に気付くと、岡嶋は慌てて言葉を続けた。
「あ、なんて、鬼沢くんに迷惑ばっかりかけちゃう僕じゃ難しいかな」
「俺が知るかよ」
だよね。そう呟いて、岡嶋は笑いながら小さくうつむいた。
「――もし、俺がいなくなってもいろいろ絡まれたらさ、俺のお袋に言えよ」
「鬼沢くんのお母さんに?」
突然の話に、岡嶋は困惑しながら顔を上げた。
「お袋はさ、結婚する前は東京の銀座でホステスやってたんだって。そのときの客の中に、お袋の頼みだったらあのハゲ校長の尻を叩いてくれる奴もいるんじゃねーの。よく知らねーけど」
聞いた話(孝男からなので信憑性はイマイチ)では、由梨子は銀座でも名の知れた店のナンバーワンで、今もって銀座で知らぬものはいないほどの伝説になっている、とか。
実際のところ、毎年正月にはポストに収まりきらないほどの年賀状が届くし、その差出人はテレビでよく見る政治家の名前だったりもした。
「だから、何かあったらお袋に言えばいい。悪いようにはしないはずだからさ。あ、親父はやめとけ。最悪な結果になる」
「だったら、自分の退学をどうにかしてもらったらいいのに」
「いいんだよ、俺は」
今の居場所にしがみついたところで、結局みんなに疎まれて、絡まれて、毎日のように誰かを殴るだけだ。窮屈で、苦しくて、うまく息ができない。でも、息をしないと生きていけない。それがまた陸を苦しくさせる。
だったらいっそ、知らない場所に行ってしまったほうが少しは楽になれるかもしれない。予期せぬ夜の散歩の間、陸の気持ちはそんなふうに移り変わっていた。
「じゃあな」
くるりと背を向けて歩き出すと、岡嶋の声が追い掛けてきた。
「鬼沢くん!」
けれど、陸は足を止めなかった。さっきまで並んでいた二つの影が、どんどんと離れていく。陸の影だけが長く伸びる。
「僕、鬼沢くんのこと、友達だって思っていいかな!」
「好きにしろ」
そう答えてから、自分の言葉がさっきの祖母と同じだと気付いて少し笑った。遺伝ってやつかな。
「連絡するね! あと、遊びに行くよ」
背を向けたまま「分かった」というように片手をあげて答えると、陸は空を見上げた。
藍色に塗りつぶされた空に、細い、まるで線のような三日月が浮かんでいた。
月は嫌いだった。夜空に空いた穴のように見えるから。
その向こうには別の世界があって、誰かがその穴からこちらを見ている。
馬鹿げた妄想。分かっている。けれど、陸はその世界が恐ろしくて――けれど、どこかで憧れていた。
その夜空の切れ間に手を伸ばす。そして、藍色をはぎ取るように大きく手を払った。
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