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「行ってきたぞ」
台所にいた千代にそう報告する。千代は野菜を刻む手を止めて、ちらと陸に視線を向けた。
「そう、ありがとね」
「それだけかよ」
「他に何か必要かい?」
「説明とかいろいろあるだろ」
「そうだねぇ」
再びトントンというリズミカルな音が響き始める。山登りの疲れもあって、気を抜いたら眠ってしまいそうだ。
「昔、あんたが山に入ろうとして叱られたこと、覚えてるかい?」
「そりゃ覚えてるよ。ばあちゃん、すげー顔して怒ってたし。親父とお袋にも、めっちゃ怒られたもんな」
「もちろん危ないからってのが一番の理由さ。でも、何よりこの山には掟があるんだよ」
「掟?」
「そう。この山にはね、オニが住んでいるのさ」
一瞬、トントンという音だけが台所に残った。
「……はぁ? そんな子供だましみてーな話を信じるわけないだろ。もう十七だぞ、俺は」
「どうしてだい?」
「どうしてって……オニなんているわけないだろ」
「おや。あんたは自分の目で見たものしか信じられないのかい? それはずいぶんと狭量なことだねぇ」
刻んだ野菜をまな板からフライパンへと滑らせる。ジュウっという音と立ち上る油のにおい。由梨子はオリーブオイルとかグレープシードオイルなんかをいろいろと使い分けていたけれど、千代が使うのはサラダ油のみだ。
フライパンになみなみと油を注いで勢いよく炒める。そして塩か醤油で味をつける。そんな潔い料理はなぜか驚くほどにうまい。
「あの赤いロープは境界線でね。あの境界線を越えちゃあならない。オニとヒトは接触しちゃならない。それがこの山の掟なのさ。あの野菜も、取り決めの一つ。これからは夕方の手伝いはいらないから、陸、あんたに運んでもらうよ」
「毎日やんのかよ」
「そう、働かざる者食うべからず、さ」
千代特製の野菜炒めが出来上がり、皿の上に移された。食欲をそそる香りが台所に立ちこめる。
「オニに見つからないように気を付けるんだよ」
つまみ食いをしようとした陸の手をはたいて、千代は意味ありげに笑った。
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