君を愛す嘘吐

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一人になると、ユキ君は時々、びっくりするほど暗い顔になる。 今、こうしてお茶を入れている時も、まるで死人みたいに表情がなくなってしまっていて、少し怖い。死人の私が言うのも、なんだか変かもしれないけれど、でも、ユキ君の顔は、私よりもずっと不健康に見える。 勿論、最近のユキ君はいつも疲れていて――主に私の所為だろう――それを指摘されることも多い。けれども、そんなものもやっぱり、カモフラージュなんじゃないだろうか? だって、ユキ君のこの顔は、もう私にとってはお馴染みなのだ。ユキ君が自分を不幸だと言い始める、ずっと前から。 私がユキ君を見つけたのは三年も前のことだから、その時、ユキ君は高校三年生だ。そしてあの頃から既に、ユキ君はこうして暗い一面を見せることがよくあった。 もっと言えば、高校時代のユキ君は一見穏やかに見えて、実際のところはひどく疲れていた。そのことをアメミヤさんに気が付かれていても、だからどうしたと言わんばかり。全然やる気がなかったのだ。 ただ、生前の記憶を無くして――最も繋がりが強かった人から忘れられてしまった幽霊は、そういう風になるらしい。生前の私も、所詮そうやって忘れられる程度の存在だったのだろう――何も分からなかった私には、その悲しさが変に綺麗に見えた。その前に一目惚れはしていたのだけど。 けれど、あの頃からユキ君は段々明るくなっていった。人前では暢気に話すだけになって、何をされても平気な風にしている。 その代わりに、一人でいる時の表情は段々暗くなっていった。だから正直、最近のユキ君は痛々しい。見ていると、辛い。 でもきっと、それもユキ君が死んでしまうまでだ。そうしたら、私はユキ君をずっと見ていたことを教えて、私だけがユキ君のことを知っているのだと説明して、私が…… ……ユキ君の心に、私なんかが入り込む隙間があるのだろうか。 「落合?」 ユキ君が遅いことを不思議に思って、台所にアメミヤさんが顔を出した。ユキ君はじっと壁を眺めていた目に光を入れて、そちらの方に振り向く。 「悪い。ぼうっとしてた」 「……あぁ、そうか」 ちょっぴりの心配を滲ませて、アメミヤさんが言った。ユキ君が微笑する。 「昔の俺とは違うんだ。急にいなくなるとでも?」 冗談のように言うけれど、私にはユキ君の言葉を、その態度程に軽く受け入れることができない。高校三年生の時期は、幾らかユキ君が明るくなり始めた時期らしく、以前のユキ君はもっと、それこそいなくなってもおかしくないような人だったようだ。 「そうではないが、ただ、気になってな」 「気になる? 何が」 アメミヤさんは、バツが悪そうに視線を逸らし、躊躇うような素振りを見せる。ユキ君は不思議そうな顔をして、次の言葉を待っている。 「写真は、どこへやったんだ」 一瞬、ユキ君の呼吸が止まった。それからすぐ、右手に持っていたコップのお茶を飲み干して「ふぅ」と一呼吸つく。 「写真?」 平然と言った。 私やアメミヤさんでなくとも、その様子が変なことには気付いたかもしれない。けれども、特に私にとっては、その平静さがもの凄く恐ろしいもののように思える。 「しらばくれる気か。そこかしこにあったろう。君の……」 アメミヤさんはそこで小さくかぶりを振った。ピンと来ていないようなユキ君を見て、それ以上はマナー違反みたいに思ったのだろう。慌てて「すまない」とつけ加える。 「いや、別にいいけど」 困ったような笑みを浮かべて、ユキ君はもう一つのコップを差し出した。なんだかぎこちなく、アメミヤさんがそれを受け取る。 アメミヤさんの言うとおり、かつてこの家には、何枚もの写真が飾られていた。玄関にも、リビングにも、キッチンにも、寝室にも……一々数えるのが嫌になるくらい、至る所にだ。 ユキ君に芸術的な趣味があった訳じゃない。写真に映っていたのは、大自然でも、人々の営みが感じられる町並みでもなかった。 そこにはただ一様に、一人の少女の姿が――ユキ君の妹さんの姿が、収められていた。ユキ君はそれを、ある日、全部片付けてしまったのだ。 「あ、そうか……」 今度はリビングの椅子に背を預けて、ユキ君がぼんやりと呟いた。机を挟んで向かいに座ったアメミヤさんは、言葉に困ってずっと目を細めている。 「確かに置いてたっけ、写真。よく覚えてたな」 「……あれが忘れられると、本気で思っているのか」 「へ?」 声を裏返して、ユキ君が目を丸くする。アメミヤさんの台詞よりも、その重苦しい語調に驚いているようだった。 そうやっていつも、ユキ君はとぼけるのだ。 「そんなに、変だったか?」 否定ではなく、疑問だった。自分は極普通のことをしているだけだと主張するどころか、何がおかしいのかすら分かっていない。そういう狂気の皮だった。 でもそれは、本当にただの皮なのだ。ユキ君は決して、精神に異常を来たしてはいない。 「……いや」 何かが面倒になってしまったかのように、アメミヤさんはぶっきらぼうに告げた。この人はそんなに無神経な人ではないから、ユキ君が黙りたがっていることを察したのだろう。元々、ユキ君の妹さんに関する話は遠慮していたし。 ユキ君はしばしば、アメミヤさんの閉口癖を指摘する。けれども、自分のことを話そうとしないのは、ユキ君も同じことだった。アメミヤさんに多くのことを語って以来、もう誰にも何も話そうとしないのだから。 結局、あの後輩――妹さんに似た後輩にだって、ユキ君は優しくするだけだった。あんなことになるまで、ユキ君は確かにあの人と一番親しくしていたのに、結局その程度が一番なのだ。今のユキ君にとっては。 ……私がユキ君のことを分かっていると主張することにだって、本当は一欠片程の価値もないのだろう。 「重要なことでもないんだ。忘れてくれ」 アメミヤさんが淡白な語調で言った。ユキ君が明るくなったのと対照的に、この人は妙に湿っぽくなってしまった気がする。 「なんかはっきりしないなぁ。さっきからずっとそうだ。何を遠慮してるんだよ」 話す気なんてないのに、こうやって質問を促そうとするのは何故だろう。アメミヤさんの躊躇を知っているから? それとも、二人とも打ち合わせ済みなの……? ユキ君は釈然としない様子のまま、自分で中身を飲んだばかりのコップに口をつけた。そして、何も入っていないことを確かめて、肩を落とす。こんな言葉はあまり使いたくないけれど、ひどく間の抜けた動作だった。 「お前は口が悪い癖に、変に人を気遣うだろ? 孤独な人には、気味が悪い程優しいし……」 「馬鹿を言うな」 ユキ君の言葉を遮って、アメミヤさんが吐き捨てるように言った。 「僕は遠慮など知らない人間だぞ」 アメミヤさんが口を歪めた。それはもしかすると、ユキ君と再会してから初めてアメミヤさんが浮かべる、笑顔だった。自嘲的な意味が含まれているのは、殆ど間違いない。 そしてユキ君には、きっとその嘲りの意味までも理解できたのだろう。同情するように、しかし冗談みたいに「それは不幸だ」と感想を漏らす。 「でも実際、お前の言葉って、時々やたらに厳しいからなぁ。真に受けると、いなくなりたくなる」 「……分かってるじゃないか」 アメミヤさんが呟くように口にした。ユキ君はそれをほんの少しも耳に入れなかったような態度で「俺は気に入ってるけどね」と評価を付け加える。 私だったら、こんなことを言われた時、どう反応すればいいのか分からない。きっと固まってしまう。それなのにユキ君は、全然気が付かない振りをすぐにして、アメミヤさんも特別、それを気にしていないみたいだ。 この二人は多分、お互いに言いたくないことが幾つもあって、お互いがそれを言わなくていいよう、口ではなんと言っても、協力し合っている。おかしいとは思うけれど、でも……そうするしかない時も、あるのかもしれない。 「そうだ、煎餅……」 ユキ君が言いかけたところで、時計の鐘が鳴った。短針は十を示している。 一瞬、二人が安堵して、力を抜いたのが私にも分かった。あんなに仲の良い友達同士だったのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。ユキ君が嘘ばかり吐くようになったことが、それとも、アメミヤさんのなんらかの体験が原因なのだろうか。 本当に、それだけだろうか。 「そろそろお暇させてもらう。長居してすまなかった」 空にしたコップを机に置いて、アメミヤさんが立ち上がった。それに釣られて、ユキ君が机で体重を支えながら椅子から離れる。 「駅までだよな? 送ってくよ」 「脚の傷は忘れたのか」 「松葉杖なんか使わないでも、ちょっと歩くくらいは不自由しないさ。大した怪我じゃないって言ったろ?」 「だが怪我人だ。あまり動かない方がいい」 「ふぅん、まぁ、そうかもな」 他人事みたいに話すユキ君を尻目に、アメミヤさんが玄関へ向かった。ユキ君はそれを眺めながら、思いきり優しく微笑する。自嘲や哀しみは、全然少しも見えない。 だから、つい私は思ってしまうのだ。あぁ、この顔だ、と。 認めたくないけれど――それを認めるのは、本当にユキ君に悪いのだけれど、でも私は、ユキ君のこの穏やかな表情が、一番好きなのだ。きっと本心などどこにもない笑顔が。 「それでは……あぁ、いや、その前に」 戸に手をかけながら、アメミヤさんが振り返る。 「何?」 「特別なことではない。ただ、一つ言わせてくれ」 最初からどこか定まらなかった視線が、唐突に一点に固定された。思わず身がすくんだ。その意図的に逸らされたであろう視線が、偶然――本当に偶然に――一瞬だけ私を見たような気がした。 「君は死ぬなよ」 短く、アメミヤさんが告げた。
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