15人が本棚に入れています
本棚に追加
黒い仮面の男
突如、身体が大きく揺れた。疲労と空腹で朦朧としながら薄く目を開けると、怪物みたいな巨大な影が石畳の廊下を動いている。僕は、硬い筋肉の肩に担がれていたが、やがて藁布団にドサリと下ろされた。
『如何です、伯爵? 上手く手入れすりゃ、女よりも艶が出ますぜ』
赤毛の盗賊が低く嗤った。逃げ出す気力もなく伸びる僕の頬を、冷たい杖の先端がグイと押した。ぼんやり見上げると、ブロンドの男が覗き込んでいる。
『金茶の瞳か……気に入った』
盗賊の読み通り、僕は高く売れたらしい。買い手は東方の伯爵で、彼の所有物の証に、紋章を型押しした黒革の首輪を嵌められた。館には、僕の他にも変わった眼の色や肌色の少年が数人飼われており、閨の相手をさせられていた。日焼けして痩せていた僕の身体つきは、まだ伯爵の好みではなかったようで、2年が過ぎても夜伽を命ぜられることはなかった。
『ハミル、伯爵が呼んでいる』
ある夜。亜麻色の髪にエメラルドの瞳を持つフィオが、僕の部屋のドアを叩いた。夜も更けている。ついに、僕の番がきたのだろう。帰る所のない身だ。ここで生きていくしかないと疾うに諦めていたから、覚悟は出来ている。それに、少年達とは上手くやっていて、それなりに居心地も良かったので、身体を自由にされるくらい、仕方がないと割り切っていた。
ノックをして、伯爵の寝室に入る。彼は着衣を剥ぐ過程も愉しむと聞かされていたから、殊更身なりを整えて、髪にも櫛を入れてきた。
『ふむ。なるほど』
『えっ――あの……っ?!』
ところが室内には、伯爵の他に大柄な黒マントの男がいて、ズカズカと僕に向かって歩いてくると、いきなり顎を掴んだ。黒づくめの男は、顔半分も黒い仮面で覆い、高いワシ鼻と肉厚の唇、そして氷のように冷たい青い瞳だけを外気に晒している。
『お前、名前は』
大きな手が離れ、足がもつれて背にドアノブが触れる。
『は、ハミル・ガステ……』
『大地の民か』
仮面の男は、かつての生業を言い当てた。懐から革の袋を取り出すと、後ろ手に投げ捨てた。伯爵が慌てて抱き止める。ガシャリと重々しい音が鳴った。
『1万ペリステだ。異存なかろう』
大金に耳を疑う。1年育てた麦を全て売っても、5ペリステがやっとだったのに。
『来い。お前の命は、今買った』
『あっ、あの、これ』
首輪を示すと、男は細身のナイフを取り出し、鮮やかに切断して床に投げ捨てた。フィオや仲間の少年達に挨拶出来なかったのは心残りだけれど、買われた身で我が儘は言えまい。男に促されるまま廊下を進み、裏口に停まっていた黒い馬車に乗せられた。
『明日の夕には着く。寝ろ』
言い捨てると、仮面の男は向かいの座席に身を預けて目を閉じた。整備された街道を進んでいるのか、車輪から伝わる振動は規則正しく大揺れはない。
彼が何者で、僕の命をどうするつもりなのか――聞きたいことは山ほどあったが、沈黙を破ることも出来ず、座席の上に丸まった。
最初のコメントを投稿しよう!