第三話

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「そうね、ありがとう。」 凛子さんが引き戸に併設された消毒液のボトルに手を伸ばす。俺もそれに倣った。手で()ねると直に鼻腔を刺激する、病院に蔓延する色を凝縮したような匂いに思わず顔を(しか)める。壁にあるプラスチックのプレートには山崎鈴の名前だけが刻まれていて、艶のある鼠色の枠はそれだけで満腹になっているから、どうやら個室らしかった。扉の取っ手に手を添えると、金属製のそれによって手のひらの熱が奪われた。一旦動いてしまえば滑らかなのだが、それまでは少しばかり勢いが要るから、向こう側は焦れったく壁と戸に切り取られる。廊下の人工的な蛍光灯によるものとは異なった白さが漏れた。今日は一週間ぶりの快晴だった。もう手は触れているだけでよかった。寧ろそれさえ憚られるように、扉は自我を持って滑っていった。 一人で過ごすには随分広い、単調で、清潔な一室だった。置いてあるのはベッドに机、テレビが挿入された棚だけで、空白が目立つはずだった。しかし、部屋を構成する意図的な色は白だけで、濃淡でしか個々の線を引こうとしないから、ひとつの大きな物体が存在しているようだった。部屋を背景に家具がある、という感じがしなかった。全てを引っ(くる)めて主題であり、背景のようだった。しかし、疑いようもなく後者だとすぐに気付いた。 奥の壁の半分を占める、大きな四面の窓は、内側の二面だけが開けられていた。窓を覆う、黄みがかった二枚のカーテンの端が、波を立てる。二枚の間には、外を伺うのに十分なくらいの隙間があった。その手前にある彼。彼は目を覚まし、上体を起こしていた。認めるとひとたび、俺は木偶(でく)(ぼう)になった。無機質な直線と曲線だけで構成された、秩序立った世界の中で、唯一彼だけが生命を感じさせ、何にも縛られず自由だった。不規則に皺を寄せた柔らかな衣服、風に(なび)く髪の一本一本、陽の光で濡れる(たお)やかな身体の輪郭。どう考えても彼が主題で、それ以外が背景だった。
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