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第四話
「誰、ですか?」
怯えたように肩を縮めて、掠れた音をたどたどしく紡ぐ。
空間が停止した。沈黙で病室が満たされる。俺達が用意していた言葉も、感情も全て無駄になった。今、俺達は鈴に与えるものを何も持っていない。それを作る暇もない。現状を咀嚼し、飲み下すことに精一杯だった。
「えっと」
短い空白のあと、俺はなんとか喉元を通らせた。
いや、でも、そんな。そんな絵空事のような話。
「えっ、じょ、冗談だよね?」
吃ってしまって、絡まった毛糸のような口火の切り方になった。頼りのない反応しかできない自分が情けなかった。頭の中で自らの頬を叩く。
「違い、ます。」
鈴は歯切れ悪く言いながら、首を横に振った。自分のことだと言うのに自信のない様子で、自分自身に確認するように、うん、うん、と二回頷いた。
腑に落ちた。確かに、この鈴は記憶のそれと距離がある。さっきから淡く感じていた違和感の正体は、これだったのか。口調は言うまでもないが、髪を依然として崩したままでいるのが引っかかっていた。鈴は、人一倍身嗜みに気を使っていて、特に、前髪が崩れている時の嫌悪振りは筆舌に尽くし難い。すぐに慣れた手つきで直す。引っ掻き回しているだけのように見えるのに、彼の指が通れば完全に修復される。丁度手品のようだった。ワックスがどうとか、コテがどうとか言っていたが、まるで洒落っ気のない俺には分からなかった。
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