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「あんた、自分の名前は分かるの?」
縋るような凛子さんの口振りに、彼女の動揺を肌で感じられる。鈴は愛想笑いを浮かべて口を開いた。
「ええと、俺は。あ、あれ?ちょっと待ってくださいね。おかしいな。自分の名前ですよね。いや、はは、まだ起きたてで、頭がぼうっとしてて。」
鈴の声色はまさに竜頭蛇尾だった。鈴は意気込んで自分の記憶を洗ったが、何ひとつ思い出せないようで、恐怖に近い焦燥感に顔を歪めた。最後には泣きそうになって、分からない、と頭を抑え丸くなってしまった。
再び静寂が訪れる。凛子さんは不意に膝の力が抜けたようになった。俺に支えられてなんとか立ち直す。昨夜から緩む暇のなかった神経は、いよいよ限界に達しようとしていたらしかった。
そんな凛子さんを他所に、俺の中で悪い考えが頭をもたげた。そして俺は、それの手を取ってしまった。
「ねえ、凛子さん、看護師さん呼んだ方がいいんじゃない?」
「あ、あぁ。そうね。呼んでくるわ。」
凛子さんの規則的な踵の音が遠くなる。
俺はベッドに腰掛けた。鈴の目線に合うように、腰を曲げる。
「ねえ。」
鈴の髪を整えるように撫でる。彼は鈍く顔を上げ、藁にもすがる思い、といった面持ちで俺を見上げた。彼の目は澄んで、悲痛に濡れていた。まるで捨てられた猫のようで、庇護欲が強く掻き立てられる。自分が、彼を守らないと。そういう使命感のようなものが湧いた。そしてその欲は、劣情に焚き付けられて、抑えられないほどの猛炎となった。空論を、うっかり机上から転げ落としてしまった。
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