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「一階です。」
機械的な音声と共に、身体に重さが戻ってくる。扉が開ききる前に、俺は肩からエレベーターを降りた。
純粋に嬉しかった。諦めていた恋が、形だけでも叶ったのだ。確かに歪な形をしている。理想とは程遠い。しかし、贅沢は言っていられなかった。鈴の恋人という立場を得たのは事実だ。俺はそれだけを噛み締めて、甘い蜜を空想する。
恋人だっていうんなら、抱きしめるのも、キスをするのも許されるよね。どうしよう、嬉しい。ドキドキする。
さっき顔から表情を削ぎ落としたばかりなのに、また頬の肉が上がろうとしてくる。俺は右手に持った携帯電話で口元を隠した。
何もかも手放しに法悦を貪っていた。上手く行きすぎやしないかと懐疑的になれるほど、俺にとって現実は現実味を帯びていなかった。恋の成就など、夢のまた夢と割り切っていた。だからこの現実をそれとして、冷静に見詰めることができなかった。本来、俺は内省的になる傾向が強く、自分の行動の善し悪しを議題に、脳内会議が頻繁に開かれる。しかし、この現実は、今まで直面してきた難攻不落のそれとあまりに懸け離れていて、それらと同じように扱うには無理があった。
俺は帰り道もずっと妄想に耽っていた。後ろ暗さは夢心地に掻き消されてしまって、心が痛むことはなかった。唇の生癒えの傷だけが皮膚を這うように痛かった。
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