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しばらく走り、目的のコンビニが見えると、そこを少し過ぎた辺りで止めてもらった。
家まで送ると言いながら、青野くんも一緒にタクシーを降りた。
ここからマンションまでは目と鼻の先で、送ると言うほどの距離ではないけれど、断るにも理由がなかった。
マンションの下で、彼に向き直る。
「わざわざ送ってくれてありがとね。食事も、今度は私がご馳走するから」
「うん……」
頷きながら目を伏せた。
「あのさ──」
青野くんが続ける。
「もう少し、一緒にいたいんだけど……」
「え、うん、いいよ」
「いいの?」
自分で言っておきながら驚いた顔をしている。その顔がおかしくて、小さく笑った。
「何もないけど、それでも良かったら」
部屋に上がるなり、思わず中を見回した。部屋着が床に落ちているくらいで、それほど散らかっていないことにとりあえずほっとした。
ベランダに続く引戸を開けると、涼しい風が頬を掠めた。
昼間はもうほとんど夏と言っていいほどだけれど、夜はまだ少しひんやりとする。
「冷たい麦茶くらいしかないけど、飲む?」
「うん、ありがと」
青野くんはいつもの場所に座っている。付き合っていた時からいつもその場所だった。確か、この前も同じだった。
「……ずっと会いたかった」
呟くように、独り言のようにそう言った声は、私の耳にはっきりと届いた。
「あの日、強がったりしなかったら、少しは何か違ってたのかな? 最後まで、格好つけて笑って離れたりしなかったらって、そればっか思ってた」
「青野くん……」
「僕は、りおが好きだよ。良いも悪いも素直なところ、僕は好きだよ」
彼がゆっくりと一呼吸した。
彼の言ったその好きは、どう受け止めればいいのだろう。
言葉が何も浮かんでこなかった。
私のわがままで彼から離れ、私のわがままで彼を傷付けた。その事実が、きつく体に絡みつき、どうあがいてもほどけそうにない。
「……好きだよ」
言ってから、私の肩に手を回した。
青野くんは、こんな私をずっと好きでいてくれた。そう思うと、痛いほど胸が締めつけられる。だけど、だから好きというものでもなくて、説明するにはどの言葉を使えばいいのだろうか。うまく呼吸ができないような、目の前が霧がかっているような、とにかく、目の前が、体全部がモヤモヤとしている。
彼が、私の頭に頬を寄せた。
「キスしていい?」
耳元で聞こえる甘い声が、現実ではないようだった。そして、私が返事をするよりも早く唇が重なった。
みぞおち辺りが一気に縮こまっていく思いがした。
勢いをつけるように、鼻から思い切り息を吸い込み、彼の腕を掴んで体ごと離れた。けれどすぐ、抱き寄せられて再び唇が重なる。
抵抗するのを、やめた。
受け入れたとは少し違う。なんと言うか、思考が止まったと言えばそれが近いのかもしれない。
こんなにも強引でわがままな青野くんは初めてだった。だからなのか、思いのほか冷静な自分がいた。彼との思い出をたどっても、こんなキスはしたことがない。
気付けば彼を見上げていた。
はっとなり、思い切り顔をそらす。
──これは、まずいでしょ……
翔太くんの時に感じた危険シグナルと同じそれが、勢いをつけて点滅し始めた。
──どうする?どうしよう!?
青野くんが、真っ直ぐに私を見ているのが分かる。
──その視線、痛いです!
そろそろと、彼に目を向けた。
先ほどのキスからは想像できないような穏やかな表情をしている。それがなんだか不自然に思えて、違和感を覚えた。
そんなはずはないと分かっていながらも、もしもが頭をよぎって仕方がない。彼を裏切った私に仕返しをしようとしているとか、雰囲気に流された私を見下しているとか、そんなことばかりだ。
彼の口元が、薄く開いた。
「少しは抵抗してよ」
相変わらずの穏やかな表情と、予想外の一言に言葉が出ない。
「勘違いするだろ」
「え……」
声がかすれたことに、動揺した。
「──ごめん」
彼が言った。
「私……」
そろそろと青野くんの顔を見上げる。
「ごめんなさい……」
「りおが謝ることないから」
言うなり体を起こし、すぐには動けないでいる私に気付くと手を取って起こしてくれた。
ソファーにもたれるようにして並んで座るけれど、お互い黙ったままだ。
ここまでされても、青野くんがどうしたいのかいまいちよく分からなかった。どうしてか、どこかに何かが引っかかっているみたいな感覚があった。
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