カーネーション

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 二人の間にある空気が、次第に変わっていく。  しばらくして、私の手に自分のそれを重ねた。  指先でそっと撫でるから、ふっと昔の記憶がよみがえる。 「……りおがそばにいないから」  囁くように言った。 「この右手、半年前まで僕のだったのに」  言葉が出なかった。  できれば今すぐ、テーブルに置いてある麦茶で喉を潤したい。さっきからずっと、喉が渇いて仕方がなかった。けれど、それに手を伸ばすことさえなんだかためらわれた。  ゆっくりと、這うように指が絡まる。「そばにいないから」、彼が続けた。  掴んだ右手を引き寄せると、自分の背中にそれを回し、力強く抱きしめられた。 「……青野くん? 苦しいから」  そう言うと、力を弱めるどころかさらに強めた。まるで、もっともっとと自分の方へ引き寄せるみたいにだ。これ以上無理だと分かっていながらそうしてしまうその気持ちは、ものすごく理解できる。 「ごめんな……」  何に対して謝ったのか分からないような言い方をすると、すっと顔が近付いてきた。  咄嗟に顔を背ける。 「さっきはよくて今はだめなの?」  目の前の人が、一瞬誰だか分からなくなる。名前を呼ぼうとして、声が喉に引っかかったみたいに出てこなかった。 「なんで部屋に入れたんだよ……」  声色が変わった。怒っているような、そんな口調だ。 「りおが思うほど、優しくなんかないから」  強気にそう言ったかと思うと、気が抜けたみたいに私の肩におでこを乗せた。丸まった背中が、急に頼りなく見える。  「──僕はずっと変わってないから」  頭を持ち上げると、おでこがくっつきそうな距離で目が合った。 「もう一回、キスしてもいい?」  駄々をこねるとは少し違う。おねだりをされているような、甘えているような口調は、私の心を揺さぶった。  私が答えないでいると、後頭部に手を回し、結局は、自分のしたいようにした。  再び、彼越しに天井を見上げる。  一度も二度も同じことだとは思わない、ただ、よく分からなかった。どの感情で彼とこうしているのか、これで良かったのか、そもそも自分の気持ちはどうなのだろうか。  そんなことを考えていると、 「……ごめん」  ここへ来て何度目になるだろうか、彼が謝った。次の瞬間、彼の手がするりと服の中へ入ってきた。息が止まる。  再び唇が重なる前に、彼の手首を掴み、顎を引いた。その時、ぼんやりとしていたものの正体がはっきりと見えたような気がした。 「へたくそ……」  口にした瞬間、納得した。 「もしかして、私に嫌われようとしてる? 」  そう言うと、分かりやすく視線をそらした。 「……黙れよ」  小さな声は、私が言ったことを肯定しているかのように聞こえる。  そうなのか、そうでないのか、思わず唾を飲み込んだ。 「ごめん、嫌な言い方したよね」  青野くんが言った。 「半分は、当たってるかも。でも、もう半分は僕だから、これが、僕だから」  こんなにも分かりやすく苦笑いをする人を、見たのは初めてかもしれない。 「もう少し一緒にいたいって言った時、結構ドキドキしてて。部屋に上がったら上がったで気持ちが抑えられなくなったって言うか、よく分かんないスイッチが入ったって言うか。りおの言動に勝手にイライラして、そうなってる自分にもイライラした。だから、ごめん。嫌なことしてごめん……」  鼻から大きく息を吐いた。 「けど──」  彼が続けた。 「りおのこと大事に想ってるのは本当だから。もし、僕のこと許してくれるなら、また連絡してもいいかな?」 「……うん」  許すとか、許さないとか、そういうことではない気がした。私がもし許すと言ってしまえば、彼が何か悪いことをしたみたいになる。キスを受け入れ、私を好きだと言っくれた彼の心に少しでも期待を持たせたのなら、私も同罪だ。もしくはそれ以上に罪深いのかもしれない。  玄関で彼を見送る。  うつむきがちになってしまうのは、この際どうしようもできなかった。  さっきとは別人のように優しく私を抱きしめ、顔を合わせてから「おやすみ」と言って微笑むから、できるだけ自然に見えるように笑顔を作る。  彼の言っていたよく分からないスイッチは、たぶん、私にもある気がした。
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