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結衣子の調子が絶好調になった頃、彼女のスマホが鳴った。すると、嬉しそうな顔で私にスマホを手渡してきた。画面を見るなり、結衣子以上に私が笑顔になる。軽く咳払いをしてから、スマホを耳に当てた。
「和仁様っ!」
「え、ああ、りおちゃん?」
「正解ですぅ」
「結衣子は? 一緒じゃないの?」
「目の前にいますよ、代わった方がいいですよねぇ?」
わざと悲しげな声で言ってみる。すると、「大丈夫」と笑いながら言った。
「それよりさ、この前春樹と二人で会ったって、本人から聞いたんだけど」
その名前に瞬間身構えた。
「えっと、はい……」
「俺も行くって言ったんだけどね」
「え?」
冗談に聞こえないのは、お酒のせいだろうか。
「あいつ手早いからさ、りおちゃんのこと心配で。何もされなかった?」
いや、これは間違いなく冗談の時の口調だ。
「か、和仁様。あの、その、和仁様が心配されるようなことはないですよ」
「本当に?」
抱きしめられてキスはしましたが……
心の中で呟いてから、全てなかったことにする。
「ほ、本当です。でも、和仁様に心配してもらえるなんて、私は幸せ者です」
「当たり前ですよ、りおちゃんは俺の大事な人だからね。自分を大切にしないとだめですよ」
ゆっくりと言葉を並べる言い方は、どこか含みがあるように感じた。
返事に悩んでいると、
「で、本当にテイクオフしてないの!?」
口調が素に戻っている。
「ノーテイクオフですよ! たぶん……」
そう答えると、声を出して笑われた。
「だけど晴天だったでしょ?」
「確かに視界は良好でしたよ。雲ひとつない青空はやっぱり気持ち良いですよね。って、和仁様? どういう意味ですか!?」
私が言い終わるよりも先にけらけらと笑っている。
「やっぱりりおちゃんて面白いよね。それじゃあそろそろ切るよ。あんまり邪魔しても悪いしね。結衣子にまた連絡してって、伝えといてもらえる?」
「分かりました。またみんなでご飯行きましょうね」
結衣子にスマホを渡しながら和仁様の伝言を伝える。よく見れば、すでに五杯目のジョッキを握っていた。
「結衣ちゃん今日は調子良すぎじゃない? 大丈夫?」
「で、和仁なんだって?」
「だから、また連絡してって。結衣ちゃん話聞いてた?今日はそれで終わりだらね」
結衣子がしっかりと握っているジョッキを差しながら言った。すると、ジョッキのふちをくるくると指でなぞり始めた。
「和くん来てくれないだ……」
尖らせた唇がらしくなくて笑ってしまいそうになった。
「和くんて……」
言ってから唇の内側を軽く噛む。
──そんな呼び方聞いたことないから!
言いそうになり、寸前で飲み込んだ。そして、結局は笑ってしまった。
「結衣ちゃん、もし一人で帰れそうになかったら、か、和くんに迎えに来てもらえばいいじゃん。和くんに!」
言いながら、しっくりしない呼び方に勝手にソワソワした。当の本人は、ドヤ顔をこちらに向けるなり「そうする」と言わんばかりだ。
青野くんのことは、それきり何も言わなかった。
結衣子の気持ちはもちろん理解できるし、ああやって言ってくれることはありがたいと思う。でも、それと私の気持ちとは、やっぱり別だった。
『飛行機』を出ると、店の近くの路肩にハザードを点滅させた車が一台止まっていた。見覚えのあるそれは、和仁様、ではなく和くんの車だ。駆け寄る結衣子の足元が、今にも転びそうで思わず手が伸びた。次の瞬間、聞いたこともないような甘い声で彼を呼んだ。
……あなたは誰ですか?
結衣子の背中に投げかける。もちろん、心の中でだ。
「りおちゃんも送ろうか?」
結衣子の背中越しに和仁様が言った。
「あ、いえ。まだ電車ありますから、私のことは気にせずに結衣子のことお願いします」
手振りをつけてそう言うと、助手席のドアを開けた結衣子が力なく手を振っている。
「それじゃありおちゃんも気を付けて帰ってね」
言ってから、彼女を助手席に乗せ、大股で運転席に回ると、含みのある笑顔を私に向けるなり右手の親指を上げて見せた。だから私も同じようにそうする。
「グッドラック!」
お互いの声がそろう。
二人を見送ったあと、時間を見ようとスマホを取り出した途端、電話が鳴った。タイミングが良いのか悪いのか、青野くんからだ。
「はい、もしもし」
歩きながらスマホを耳に当てる。
「あ、今大丈夫?」
「うん」
「ごめん、会いたい」
その言葉に遠慮や戸惑いは感じられなかった。
「りおに、会いたくなった」
だけどただ、なんとなくいつもとは感じが違う気がして、流されるままに頷いていた。
午後十時過ぎの誘いは、考えなくてもいいことまで考えてしまう。それなのに、外で会おうと言えなかったのは、たぶん、彼の声色のせいだ。
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