エーデルワイス

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 何度もここへ来た。  見慣れた部屋、懐かしい匂い。  大きなビーズクッションは、相変わらず真ん中がへこんでいる。 「りお……」  名前を呼ばれて振り向こうと顔を上げた瞬間、後ろから抱きしめられた。  だけど、驚かなかった。 「……なんで普通なの?」  語気が弱々しくて、抱きしめられていることを忘れそうになる。 「この前、僕が言ったこと覚えてる?」  小さくうなずいた。 「僕がりおのことどう思ってるのか、分かってるなら簡単に部屋に来るなよ」  冷たい言い方だった。 「……ごめんなさい」  聞こえているのか分からないほどの小さな声で謝ると、頭の上で舌打ちが聞こえた。だから余計に、申し訳ない気持ちになる。 「ごめん」  今度は彼が謝った。 「今のは、自分に対してだから」  彼の言ったそれは、たぶん、舌打ちをしたことに対してだろう。 「今日、仕事でごちゃごちゃしてて、うまくいかなくて。だけど目の前のことはやらなきゃいけなくてさ」  あからさまに彼が愚痴を言うことは今までなかった。だから、それが愚痴なのだと気付くまでに、ゆっくりと一呼吸分はかかった。 「一緒だった女の子とさ、恋人同士っていう設定だったんだけど、その子とは、前に何度か仕事したことあるくらいで、本当、知り合い程度なんだけど。なんていうかその、キス、された……」  言うなり腕の力を強めたかと思うと、しばらくしてそろそろと私を離してくれた。 「最後のカットが終わっても、彼女が僕の手を離さないからどうしたんだろうって思ってたら、不意討ちで。しかもさ、そういう時に限って誰も見てないんだよね」  力なく笑うと、私の顔を上向かせた。  大きな手のひらは、優しく私の頬を包んでいる。 「──りおとキスしたい」  その顔は、私にだめだと言えなくさせる。簡単な答えも、こんな時に限ってはすぐには出てきてくれない。頭の中でぐるぐると言葉が回る。 「きっと、その子は青野くんのことが好きなんだよ」  薄く口を開くけれど、それだけで、次第に彼の顔つきが怪訝になっていく。 「……話そらすなよ」  ため息が、音になって聞こえた。  頬にある手はそのままに、私を真っ直ぐに見つめている。  薄く開いた唇が、さっきとは違って見える。  彼が今何をしようとしているのか気付いてしまった。 ゆっくりと顎を引き、唇をきゅっと結ぶ。 「……りおのバカ」  まさかそんなことを言われるとは思わず、うつむけていた顔をさっと上げると、彼が顔を近付け、私のおでこに自分のそれをくっつけた。 「りおのこと、もっと困らせたいけど、今日はやめとく」  それがなんなのかは分からないけれど、言いたいことを我慢しているのは伝わってくる。 「なんか、りおのこと見てるとさ──」  私の髪の毛を手ですきながら続けた。 「ムカつく」  言葉とは裏腹に、その口調は柔らかい。 「ちゃんとしろよ。隙ありすぎなんだから」 「……ごめんなさい」  心当たりを考えながら答えると、ふっと笑われた。 「りおのせいだから」  一瞬だけれど、唇が重なった。  不意打ちのそれに、そういうことかと思った。もちろん、ことが起こったあとでは遅すぎる。それでも、青野くんの言ったことを理解するには十分すぎた。 「ちょっとは抵抗しろよ……」  つかまれた手首が痛い。  顔をしかめるけれど、その手を緩めてはくれなかった。  私に背中を向けて大股で歩きだす。その足は、迷いなく寝室へと向かっていた。  私を先に中へ入れると、後ろ手で寝室のドアを閉め、つかんだ手首を自分の方へ引き寄せた。それも、遠慮なくそうするものだから、思い切り青野くんに体当たりしてしまった。私の小さな悲鳴を無視し、今度は両肩をぽんと押された。傾いた体は、一瞬でベッドへと落ちていく。 「やっぱ無理……」  呟くと、私の上に体ごと覆いかぶさった。  彼の表情は全く分からない。  できるなら、五分前に時間を戻してほしい。いや、三分前でもいい。寝室に入る前まで時間を戻せるのなら、せめてもう一言、二言くらいの会話をしてもよかった。  今は、間違いなく後悔している。  心が、頭が、何かのはざまを行ったり来たりしていた。  そして、首筋に当たった温かいものが彼の唇だと理解した途端、頭が一気に冴えるようだった。両肩を押し返しながら身をよじるけれど、その手をつかまれてベッドの上でしっかりと繋がれた。その瞬間、自分の口から出た甘い声に、動揺してしまった。正直、この体勢に弱い。  私の中のスイッチが、音を立てて押し上げられる。  優しいキス、優しくないキス。  気が付けば彼に、従順になっていた。  ──私このまま……  この状況でこの先を想像しないのは、たぶん無理だろう。  天使と悪魔が囁くように、頭の中でそれぞれの感情が主張して仕方ない。  ──キス、うまい、うますぎる……  天使のかもしだす、色に例えるならピンク色の雰囲気に酔いしれそうになる寸前で、悪魔がそれを上書きしようとする。  ──これってただ流されてるだけじゃん!  けれど、舌で歯列をなぞられると、悪魔は次第に小さく消えていった。  体中に鳥肌が立つ。それも、何度も、何度もだ。それなのに、頭はまどろみへと沈んでいくようだった。矛盾している。  ただ、素直に気持ち良い。  ──もっと……  今のは私自身だ。
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