エーデルワイス

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 ──あんたそれでいいの!?  突然、天使でも悪魔でもない声が聞こえた。実際に聞こえたわけではなく、頭の中に直接入ってきたのだ。  聞き覚えのあるその声は、間違いなく結衣子の声だった。まさかとは思いながら、すっと顎を引く。当たり前だけれど、目の前にいるのは青野くんだ。 「……どうかした?」  かすれた声で彼が言った。 「ん、ううん」  答えながら、そろそろと体を縮めた。そうしながら、こっそりと彼の様子を伺う。  これは現実で、全ては自分で決めたこと。ただ、頭の中の声は、それを許してはくれそうにない。  どこにも嘘や偽りはないけれど、現実に引き戻されていくような、不思議な感覚だった。 「りお?」 「私……」  言いかけて、言葉に詰まった。  咄嗟に口を開いた自分を責めた。 「嫌?」  そんな声で聞かないでほしい。 「これ以上は、だめ、かな?」  だめ押しするみたいなその言葉が、絶対に離れないといったように私にしがみついてくる。 「やっぱり、今は……」  その続きはなんだというのだろう。そもそも、「今は」ということは、今後はあり得るということなのだろうか。  自問自答。いや、答えはまだ出てこない。  うまく言葉を選べないのは、全てこの状況のせいだ。 「はぁ!?」  周りの人が振り返りそうなほどのすっとんきょうな声を上げたのは、和仁様だった。 「だよね? 和仁もそうなるよね? あり得ないよね?」  どんどん語気が強まり、手振りまでつけてそう言ったのは結衣子だった。  今はいつもの「飛行機」、ではなく、焼き鳥が食べたいと言う和仁様の要望で、チェーン店の焼き鳥専門店に三人で来ている。 「春樹ってさ、ある意味やっぱり変態じゃね?そこまでしといてよく我慢したよね。て言うか、あいつって超が付くほどのドエムだったのか? 俺、そういう春樹見たことないからさ、マジで想像つかないんだけど」  一気にそこまで言うと首をかしげた。 「ていうことはさ、りおちゃんは春樹とはよりを戻す気はないってことだよね? まぁ、受け入れなかったからってそれが全てとは思わないけど、それでも男からすればけっこうダメージ大きいと思うよ。それもさ、好きな人ならなおさらじゃない?」 「そうだよ! その気がないのに部屋に上がったり、キスしたりしてんじゃないよ! そんなことしたら、誰だって勘違いするし、何されてもりおは何も言えないんだからね!? 相手が青野くんだったから良かったけど、分かってるの!?」  二人の言葉が容赦なく胸に突き刺さる。 「その気もないのにそんなことするなんて、青野くんに悪いと思わなかったの? 元彼だからってね、なんでもかんでも許されないからね」  今日の結衣子は言い訳をする隙すら与えてくれないらしい。 「て言うかさ、りおは青野くんの気持ち知ってるんでしょ? 私がりおならそんなことしない、できないよ。青野くんが優しいからって、甘えすぎだから」  鼻から大きく息を吐くと、喉を鳴らしてレモンサワーを飲んでいる。グラスの中の氷がふつがる音でさえ、今の私には怒っているように聞こえた。  恐る恐る二人の様子を伺うと、それぞれが別の方に目を向けている。こんな私には、もはやかける言葉すらないのだろうか。もしもそうだとしたら、いや、もしもの想像は、今はやめておこう。  こっそりと、深呼吸をする。途端、目の前の集中力が切れたように、 店内の雑音が急に耳の奥で騒がしくなった。店員のいきいきとした「いらっしゃいませ」、サラリーマンたちの楽しそうな乾杯の音頭、大学生だろうか、運ばれてきた料理の写真をスマホで何度も撮っている機械的な音。聞くともなく聞こえるそれらに自然と耳を傾けた。  なんだか自分だけが不自然なのでは思うほど、ここにいる人たちはみんな楽しそうに笑っている。  細く長く息を吸い込んだ。そのままそれがため息になって出そうになり、寸前でそろそろと鼻から吐きだした。  しばらくして、先に口を開いたのは和仁様だった。 「そんなに怒っても仕方ないんだから──」  そっぽを向いたままの結衣子の肩に手を乗せ、なだめるようにそう言うと、ゆっくりと話し始める。 「分かんないんでしょ? 自分の気持ち。何て言うか、分かんないことが分かんないって言うかさ。春樹のこと、嫌いじゃないのは分かるよ、けど、恋愛対象じゃないならさ、期待を持たせるようなことはしない方がいいんじゃない。きっと春樹はさ、りおちゃんの気持ち分かってると思うよ。自分のこと男として見てないって分かってても、気持ちばっか先走って、どうしようもないんだろうね。しかもさ、中途半端に自分のこと受け入れてくれるもんだから、余計だと思うよ」  どうしようもなくて、顔を伏せた。 「て言うかさ──」  結衣子が私に向き直る。  ようやく口を開いたと思ったら、その口調はいつも以上に出来上がっている。
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