エーデルワイス

6/7
前へ
/132ページ
次へ
 店を出てすぐ、青野くんがこっそりと私に耳打ちをした。 「──家まで送って行く」  すっと息が止まり、勢いで頷きそうになったけれど、その申し出を丁重にお断りした。それを知ってか知らずか、結衣子の提案で帰る方向が同じだと言う村本さんと一緒に帰ることになった。「ありがとう」の目配せを、ものの数秒だけで何度したことだろう。  村本さんの身長は青野くんよりも少し低くかった。くっきりとした二重が、年齢よりも若く見える。それから、白いティーシャツから見える二の腕が、青野くんよりも男らしくてドキドキしてしまった。仕事ではスタジオ撮影がほとんどだと言っていた。だからきっと、この日焼けは趣味だと言っていたフットサルだろう。 「村本さん、タクシー全然止まってくれません!」  流れてくるタクシーに向かって先ほどからずっと親指を立てている。にも関わらず、空車と表示しているはずのタクシーがこちらに見向きもしない。 「村本さんも一緒にして下さいよぉ」  少し離れて立っている彼に言うと、口元に手を添えて笑っていた。 「なんで笑ってるんですか?」  首を横に振るけれど、それは見れば明らかだった。 「村本さん?」 「普通さ──」  笑いを含んだ声で村本さんが続けた。 「タクシー止める時ってこうじゃないん?」  言うなり右手を軽く上げて見せた。 「りおちゃんのはどう見たってヒッチハイクやん!」  言われてはっとなる。けれどすぐ、それとは違うと思った。どちらかと言うと、私のこれはパイロットの真似だ。もちろん、和仁様直伝のそれだ。 「今度は村本さんの番です!」  彼の腕を引いて歩道の端まで連れてくるけれど、タクシーを止めるどころか笑っているだけだった。 「なぁ──」  村本さんが言った。 「もう一軒行かへん?」 「今からですか?」 「タクシーつかまらんし、俺もうちょっと飲みたいし」 「いいですよ。でも、一杯だけですよ。帰れなくなったら困るので」  村本さんがふっと笑った。 「村本さんて、よく見るとたれ目なんですね」  隣から、顔を覗きこむようにして見上げる。 「なんやねん急に」 「それと、大阪の方なんですね」 「今さらかい! さっきそんな話してたやん」 「あと、村本さんて面白いです。今日はいっぱい笑わせてもらいました。なんか、久しぶりにあんなに笑ったなぁて思って。だから、ありがとうございます」  そう言って頭を下げると、わずかに首をかしげた。何か言いたそうに見えたけれど、それだけだった。  「俺の知ってる店でいい?」、そう聞かれて迷うことなく「はい」と答えた。  彼に案内されたその店は、スポーツバーだった。聞いたことはあるけれど、実際に来るのは初めてだった。店に入るとすぐ、壁に備え付けられている巨大なスクリーンが目に飛び込んできた。足の長いテーブルとスツールが並べられ、ほとんどがサッカー関係のグッズだろうか、至るところに飾られている。  店内の中央のテーブルに案内され、向かい合わせで席についた。今日初めて、真正面から彼を見る。それだけのことなのに、なんだか少し、照れくさくなる。 「りおちゃん何飲む?」  メニューを私に向けながら聞いてくれた。 「それじゃあ、カシスオレンジでお願いします」  改まった口調が、不自然に聞こえないかと言い終えてから不安になる。 「ずっとそれやな、どんなけ甘いの好きやねん」 「今日は甘い気分なんです。村本さんにもあとで一口あげますね」  返事はないけれど、笑いながらたばこに火をつけた。 「仕事で嫌なことでもあったん?」 「え、どうしてですか?」 「さっき、久しぶりに笑ったって。だから、なんかあったんかなぁて」 「……その、なんでうまくいかないんですかね」 「なんや急に」  天井に向かってたばこの煙を吐き出した。 「何がうまくいかへんねん?」 「村本さん、どうして人は人を好きになるんでしょうか?」 「そんなもんしゃあないやろ、好きになってまうんやから。片想いでもしてんのか?」 「私じゃなくて。その、相手の気持ちにうまく答えられないって言うか、断れないって言うか……」 「自慢話かい!」  私が言い終わるよりも早くそう言うと、鼻から大きく息を吐いた。 「いいも悪いもちゃんと返事したらんと、相手の立場考えたら、中途半端にされるのが一番辛いんとちゃうの?」 「分かっては、いるんですけど……」 「はっきり断られへん理由を勝手に自分で作っとるだけやろ」  図星だと思った。だけど、意識的にそうしていたわけではない。理由を作っていたのは、きっと無意識だ。たぶん、そうだ。 「全部が全部うまくいく恋なんてないからな。断る勇気も必要やって思うで」 「断る勇気……」 「どうしても断られへんかったとしても、期待させるようなことをするのだけはやめときや。相手もそうやけど、そんなんしてたら自分もしんどなるからな」  二本目のたばこに火をつける仕草を見るともなく見ながら、天井に消えていく煙を目で追った。そうしてから、たばこを持つ村本さんの指先に視線が止まる。  骨ばった指、切り揃えられた爪、手の甲には浮いた血管。とても男性的なのに、綺麗だと思った。そう、思っただけのはずが、気付けば手を伸ばしていた。
/132ページ

最初のコメントを投稿しよう!

300人が本棚に入れています
本棚に追加