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意識しているつもりはなかったけれど、さっきからずっと、「お前」と呼ばれている気がする。それが、ものすごく他人行儀に聞こえて仕方ない。
「適当に、歩いて帰ります……」
「ありがとうございました!」、高校球児並みに頭を下げてそう言うと、村本さんは声を上げて笑いだした。
「お前、マジでおもろいな!」
怒ったり笑ったり、彼の考えが全く読めなかった。
──どっちかにしてよ!
とは思っても、言えないのだからどうしようもない。
村本さんが鼻から大きく息を吐いた。
「お前さ──」
次第に表情がなくなっていく。
「どこまで本気か知らんけど、簡単に好きばっか言っとったらあかんで」
確かに勢いで言ってしまったことは事実だけれど、でもそれは、単純に好きがあふれてしまっただけだ。だから、中身のないそれとは全然違う。
検討違いなことを言われ、村本さんを睨みつけそうになって唇の内側をきゅっと噛んだ。
せめて、冗談で返してほしかった。
「……ごめんなさい」
うつむくと、チラチラ大作戦が視界に入る。
自分がどうして謝っているのか、よく分からなかった。ただひとつ分かるのは、飲み過ぎた自分が悪い。それだけだ。
「でも──好きです」
たぶん、今日言った「好き」の中で、今のが一番まともな「好き」な気がする。
足元こそおぼつかないけれど、気持ちはしっかりとしているつもりだ。
唇をきゅっと結び直す。
村本さんの顔が、どんどん雲っていく。
「……ごめん」
耳から入ったその言葉が、自分の意思とは関係なく、頭の中で何度も鳴り響く。
「ごめん」
二回言ったことに意味などないだろうけれど、二回も聞きたくはなかった。
言いたいことは山ほどある。でも、言わない方がいい場合もある。
全部、自分の都合の良いように解釈していただけだったんだと、できるなら、気付きたくなかった。
「私に出会えて良かった」、その言葉には、深い意味などなかったんだ。一瞬で、自分の存在価値が薄っぺらなものに思えた。
私のことをもっと知りたいと言ってくれたのも、二人でご飯に行きたいと言ってくれたのも、村本さんからすればただの社交辞令で、そういった大人の付き合い方を知らない私からすれば、勘違いするには十分すぎた。 名前を呼ばれた時には、大好きだった。
「……また会えますか?」
咄嗟にそう聞いていた。
「もう、会えないですか?」
必死だった。
出会う順番が少し遅かっただけで、聞きたくもない「ごめん」を三回も聞かされて、悔しかった。
村本さんは目線を下げたままだ。もう会えないとすぐに答えないことが、優しさだと思っているのだろうか。それでも、きちんと受け止めようと心の準備をする。
「また、会えるんとちゃうかな」
「え……」
驚いている私の横を通り過ぎると、小走りに車道側へ行き、タクシーを止めた。呼ばれて彼の方へと足を向ける。
「気付けて帰りや」
彼の笑顔に、思考が完全に停止する。
言われるがままにタクシーの後部座席に乗ると、早々にドアが閉められた。彼が片手を上げると、行き先を告げるよりも先にタクシーが動きだした。
ウィンカーの音が耳障りで仕方ない。うつむくと、チラチラ大作戦が私を見上げている。虚しさが、一気に押し寄せてくる。
マンションの部屋に着くと、八つ当たりするかのように脱いだ服を放り投げる。今日のために、あれほど心が弾んで仕方なかったのに、何も報われなかった。
思い立ったようにカバンからスマホを取り出し、「村本さんにフラれた」、それだけを結衣子に送った。するとすぐに返事が返ってきた。
「無事?」
結衣子らしいそれに、ほんの少しだけ気持ちが緩んだ。
「いいえ、傷だらけです」
「無傷だと思ったんだけど。そっか……」
「ただ、ありがたいことに目を閉じればすぐにでも眠れそうです。早く結衣ちゃんに会いたいです。その時は、傷の手当てよろしくお願いします」
重たいまぶたに逆らわずにいると、あっという間に意識が遠のいていった。
いつも以上の集中力に、自分でも驚くほどだった。頭が冴えているような、体が軽いような、例えるなら、午前二時を過ぎた頃のカラオケだ。眠気を通り越した時のあの感覚に似ている。
プレゼント用の花束に使う花を、ブリキのバケツから選りすぐる。朝一番に注文を受けたそれは、なんでも還暦を迎える母親へのプレゼントだそうで、電話口で話す娘さんの嬉しそうな声が印象的だった。私は、うまく笑えていただろうか。
赤色のラナンキュラスを中心に、白色やピンク色の小さなのバラをバランス良く添え、レザーファンの高さを調整しながら整えていく。はさみから伝わってくる茎を切る感覚が、いつも以上に心地良く感じる。
最後に真っ赤なリボンを結んでいると、ちょうどそこへ依頼主である例の娘さんが来店された。私の抱えたそれを見て、一瞬で、それこそ花が咲いたような笑顔になると、私の作った花束をとても喜んで受け取ってくれたのだ。
「りおちゃん、何かあった?」
仕事が一段落した頃、柔らかい声で伊勢崎さんがそう聞いてきた。
今日、顔を合わせた時からたぶん彼女は気付いていたのだろう。私の様子がいつもとは違うことに。自分でも分かっていたし、隠せるとは思っていなかった。むしろ、助けてほしいというサインを出していたのかもしれない。
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