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「夏休みなんてないない。ずっと仕事や」
「そうなんですか。じゃあ、どこにも出かけてないんですか?」
「せやなぁ。どっこも行ってないなぁ」
たばこの煙を私とは反対側へ吐き出す。
嘘つき……
彼の横顔に向かって心の中で呟く。
その答えの中に、彼女とのデートは入れてないくせに。
嫉妬が、こぼれそうだ。
「……じゃあ、どこか出かけませんか?」
「え?」
「私もずっと仕事だったので、夏らしいことしてないんですよ。だから、どこか行きましょうよ」
できるだけ明るく、だけど冗談には聞こえないように。それなのに、あっけなく冗談として扱われた。「あほか!」、の一言に、「ですよね」、と言うのが精一杯だった。笑顔が苦笑いにならないようにつとめ、オレンジジュースで口元を隠す。そうしながら、どうしたものか、何かないかと頭を巡らせる。
「……あっ、花火大会!」
思い出したと言わんばかりの顔を村本さんに向ける。もちろん、先ほどの「あほか!」を忘れていたわけではないけれど、気が付けば、口が勝手にしゃべっていた。
「今週末、今年最後の花火大会があるんです。行きたいです!」
「今週末って、明日やないかい!」
「村本さんと花火大会行きたいです! 一緒に花火見たいです。浴衣、着たいです……」
「だめですか?」、そう聞く頃には、言い始めた時の半分も声が出ていなかった。
すがるような目で村本さんを見つめる。
すると、一瞬彼の目元が和らいだ気がした。この感じだと、とりあえず「あほか!」はなさそうだ。
「……行くか? 花火大会」
聞き間違いではないのかと、彼の顔をまじまじと見つめる。
「行かへんのか?」
「い、行きますっ!」
ほとんど叫んでいた。
あきれたように笑われるけれど、この際そんなことはどうだっていい。
「本当の本当に、私と花火大会行ってくれるんですよね? 嘘じゃないですよね?」
「お前、どんなけ疑い深いねん」
「だって……」
彼女のことを言おうとして、やめた。
「まさか本当に一緒に行ってくれるなんて思わなかったので、夢みたいで。すごく、嬉しいです」
彼が、たばこの煙の中でふっと笑った。
気持ちが次第に落ち着いていく。だけど、完全にはそうはなってくれない。村本さんには彼女がいる。それは変えられない事実で、言い換えれば村本さんには好きな人がいる。簡単に理解できることなのに、簡単には納得ができない。
今日のことを結衣子に話したら、「奪っちゃいなよ」と事もなげにそんなことを言いそうだ。
去年買った浴衣をクローゼットの奥から引っ張り出し、クリーニング屋のタグを丁寧に外す。そして、付属の説明書をひたすらに読み返した。
長めの半身浴に、パックをしながらむくんだ足をマッサージする。今日と明日でいくらも変わらないと言われてしまえば確かにそうかもしれないけれど、こういう時は気持ちが大事だ。
女の子はいつだって、好きな人に可愛いと言われたい。頑張っておしゃれをして、メイクにはいつもより時間をかける。
背伸びをした日は特にそうだけれど、嘘でもいいから綺麗だねと言われたい。でも一番は、少しでもいいから女として見てほしい。私に、ドキドキしてほしい。ただ、頑張れば頑張るほど、本心をうまく隠せなくなる。
──分かってる。分かってる。分かってる……
夕方、化粧を済ませて鏡の中の自分を見つめて不意に冷静になった。村本さんには彼女がいる。それはもちろん分かってるつもりではあるけれど、どうしても、期待してしまう自分がいる。
──分かってる。分かってる。分かってる……
でも、会えるのは、やっぱり嬉しい。
柑橘系とバニラの香りが混ざったボディクリームを、首筋と手首に塗りつける。すっきりとした甘い香りを吸い込み、例の第三作戦を思い出す。考えていても始まらない。あとは、その時の自分に従うだけだ。
駅前には浴衣を着た人たちが行き交っていた。毎年のことながら、花火大会の日はいつも以上に人が多い。
今朝、慌てて塗り直した赤色のペディキュアが、小花柄の鼻緒に良く似合っている。それを見るだけで、自然と頬が緩む。
電車が駅に着くたびに、改札を抜ける人たちで一気に騒がしくなる。
もう、何度目のそれだろうか。
約束の時間を十分ほど過ぎたあたりから、スマホを何度も確認するけれど、村本さんからはなんの連絡も入らない。今日も朝から仕事だと言っていたし、撮影が長引いているのかもしれないと思うと、こちらから連絡するのはなんとなく気が引けた。
スマホを握りしめ、今はただ、彼からの連絡を待つ他になかった。
行き交う人たちを見ることなく見ながらそうしていると、不意に名前を呼ばれた気がしてはっとなった。
辺りを見回していると、今度ははっきりと聞こえた。するとすぐ、その声の主に視線が定まる。
「……青野くん」
彼は、優しく微笑んでいる。それなのに、なんだか嫌な予感がした。彼が悪いわけではなくて、単純にそんな気がした。
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