アイビー

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「浴衣、可愛いね」  突然のそれに、うまく笑えただろうか。 「青野くんは、何してるの?」  何も悪いことなんてしていないのに、緊張感にも似た感情がどっと押し寄せてきた。 「仕事終わって。それで今日、花火大会で──」  歯切れの悪さに思わず首をかしげた。 「村本さん、撮影が押してるみたいで」  まさか、青野くんの口から村本さんの名前が出るとは思わなかった。  開きかけた唇を、きゅっと結び直す。 「たまたま会って、そういう話になって、代わりっていうのもあれだけど、りおがすごく行きたがってるって聞いて、僕なんかで申し訳ないけど、りおがいいなら一緒に見に行かない?」  の中で、二人は何を話したのだろう。私のことは、どんなふうなやり取りをしたのだろう。村本さんへの気持ちを、青野くんは知っているのだろうか。 「それならそうと、連絡くれれば良かったのに」  答えになっていない上に、口調が嫌みのそれみたいでどうしようもなくなる。 「それは、ごめん」  「謝らないでよ」、とはうまく言えず、首を横に振る。 「私こそ、嫌な言い方してごめん」  今度は青野くんが首を横に振った。 「りお」  いつもの優しい声だ。 「行こう、一緒に」  どうしてだろう。断れないのは、どうしてだろう。  迷っているのか、迷っているふりをしているだけなのか。自分でもよく分からないまま、遠慮がちに首を縦に振った。  次の瞬間、青野くんの顔がいっそう笑顔になっていく。 「花火大会、久しぶりだね」  青野くんが言った。  付き合っていた頃、一度だけ一緒に見に行ったことがある。あの時は、ただただ楽しくて、二人でいることを当たり前に思っていた。でも今は、隣にいるのが村本さんでないことが残念で仕方ない。そんなこと、もちろん青野くんには言えない。  花火大会の会場へ近付くにつれ、どこからともなくどんどん人が増えてくる。だから自然と青野くんとの距離が近くなるのは仕方ないのだけれど、それでもこれは、近すぎやしないだろうか。もうほとんど腕がくっついている。 「りお、大丈夫?」  私を見下ろす顔が、すぐそこにある。 「大丈夫、ありがと」 「足元、つらかったらすぐに言って」 「うん……」  胸の奥が、ざわついている。  人の波に流されながら歩いていると、突然青野くんが私の手を握った。人の流れを横へ抜け、自動販売機の陰に身を潜めるように向かい合う。 「もう少し、人の少ない場所へ行かない?」  握られた手はそのままだ。 「私は、どこでもいいよ」  言いながら、正直どうでもいいと思った。本当に、どこでもいいと思った。  「行こうか」、そう言うと、再び私の手を引いて歩き始めた。  道路の端に寄り、人の波に逆らうように歩いていく。次第に、辺りの景色が変わっていく。灯りと呼ばれるものは、道の両側に等間隔に並んでいる背の高い街灯くらいだった。人通りがないことはないけれど、連れてきてもらわなければ、来ることがないような場所だ。  そこから脇道へ入ると、突然空がひらけた。目の前に土手が見える。たぶん、目指していた川沿いの土手へ遠回りをして来たのだろう。メイン会場から少し離れただけで、比べものにならないくらい人が少ない。それを知ってか、周りにはカップルの姿が多く見られる。もっと詳しく言えば、彼氏の肩に頭を乗せて寄り添っているカップルや、じゃれ合っているカップルや、キスを繰り返しているカップルだ。伊勢崎さんの言葉を借りるなら、これこそ夏のせいに違いない。さらには花火大会という非日常が、ここにいる全員を浮かれに浮かれさせているのだろう。  恐るべし、夏。 「そのへんに座ろっか」  言いながら青野くんが適当に指差した先には、この場所だけで見ればそれなりにおとなしそうな男女のペアが並んで座っていた。彼らから数メートル離れて同じ方向を向いて座ると、意外にも、周りのカップルがそこまで気にならないことに気付いた。全体を見ればものすごく目につくものの、同じ目線になってしまえばこんなものなのかと、少なからずほっとした。 「座りにくくない?」  青野くんが言った。 「え、ああ、平気」  膝を抱えて答えると、 すっと目を細めた。そこでなんとなく違和感を覚えた。それからすぐ、その違和感の正体に気が付いた。無意識すぎるほど無意識に、彼の、青野くんの左側に座っていたのだ。それを、もはや違和感と感じてしまうあたり、青野くんは私の過去なのだと言われているような気がした。  私が言うのは筋違いかもしれないけれど、なんだかショックだった。 「実はさ──」  青野くんの声ではっとなる。 「今日仕事一緒だったスタッフさんに教えてもらったんだ、この場所」 「そう、なんだ。いい場所教えてもらったね」  自分の笑顔が嘘っぽく思えて、不自然にならないように顔をそむけた。  真っ暗な川へ視線を向けると、今以上に気持ちが沈みそうになる。それではだめだと、そこからさらに右側へと視線を移した。  遠くのざわめきが、風に乗ってかすかに聞こえる。河川敷きに並ぶ屋台の灯りが、長く連なっているのがよく見えた。そちらに目を向け、ぼんやりとそれらを眺める。  もしも、約束の時間に村本さんに連絡していたら何か変わっていたのかもしれない。遅くなるけど行くよ、なんて一言が、聞けたかもしれない。
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