ガーベラ

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 もしも仮にこの恋が気のせいだったとすると、始まってもいないというわけで、だから終わることもないということだ。翔太くんを好きだと思っていた私は偽物の私で、結衣子の言う通りこの数週間は何もなかったのかもしれない。  私はいったい、何を一人で騒いでいたのだろうか。  難しく考えることほど、苦手なものはない。 「りお、ねぇ聞いてる? りお?」  結衣子の声が次第に耳に戻ってくる。 「……うん、聞いてる」 「何て言うか。色々言ったけど、りおが翔太と付き合いたいくらい好きだって言うならもちろん応援するよ。でも、中途半端にわけ分かんなくなってんなら、無理に前に進もうとしなくてもいいんじゃない?後ろを振り返れとは言わないけどさ、自分の気持ちを整理して、それでも分かんないならとりあえず翔太は友達でいいじゃん。それ以上でも以下でもない友達の関係って、意外に難しかったりするからさ、特に男女間のそういうのって。だから今は、このままでいいんじゃない?」 「結衣ちゃん……」 「そんな泣きそうな声出さないでよ」 「だって……」  特別焦っていたわけではなかったけれど、もしかするとそう思い込んでいただけで、進展のない関係に、本当は焦っていたのかもしれない。 「もうやめる!」  マンションの部屋のドアに鍵を差し込みながら、思い立ったように言った。 「へ?」  間の抜けた結衣子の声に、同じことをもう一度言う。 「もうやめたの! 翔太くんのこと!」 「はい!?」 「私だって──」  うまく脱げなかったパンプスがひっくり返るけれど、気にせずに続ける。 「幸せになりたいもん!」 「どうした急に?」 「急じゃないから、ずっとそう思ってるよ」 「いやいやそうじゃなくて、どうして急に翔太のことやめるとか言い出すわけ?」 「もう、分かんなくなっちゃったの! 私単純だから結衣子みたいにうまく駆け引できないの! 好きなら好きしかないんだもん」  やさぐれた言い方が自分でも嫌になる。  結衣子のため息につられて、同じようにそうしていた。 「りおの性格は分かってるつもりだけどさ、もうちょっと大人になろうよ。単純なのは良し悪しかもしれないけどさ。何て言うか、そういうとこも含めて好きだって言ってくれた前の彼氏、本当いい人だったよね」  あからさまに皮肉を含んでいる。  続けざまに、結衣子がすっと息を吸い込むのが分かった。 「あんたのわがままであんないい人ふってさ、好きな人ができたからって、その場のノリだけで翔太のこと好きって思い込めるその性格はある意味すごいけどさ、本気でもないのにわけ分かんない理由でふられた青野(あおの)くんの気持ち考えなさいよ!」  結衣子の声が耳の奥に響く。 「誰かと付き合うって、私とりおにも言えることだけどさ、お互いがお互いの時間や記憶を共有することだからね。時間は戻らないし、記憶は消せないんだよ」  彼女が短く息をついた。 「もっとさ、自分の言動に責任を持つって言うか、相手のことを想って行動しないと、うまくいくこともうまくいかないよ。りおはさ、自分のことしか考えてないよ」  ここまではっきりと言い切られては言葉がなかった。他の誰でもなく、私のことをよく知っている彼女だからこそ余計にそうだ。それに、これは間違いなく結衣子の本心だろう。  短い沈黙のあと、特別優しい言葉をかけてくれるでもなかった。 「ごめん、少し感情的になりすぎた。一人でゆっくりと考えてみればいいんじゃない?」  突き放した言い方ではないけれど、私には同じに聞こえる。  ソファーからずれ落ちるようにして床に寝転ぶ。途端、体が床に吸い込まれていきそうな感覚に陥る。きっと私は、地球上の誰よりも未熟で、人の気持ちが分からない人間なのかもしれない。そう思うと、少しだけ楽になれた気がした。  結衣子の言う通り、自分なりにゆっくりと考えてみた。ただひたすらに、考えて考えて、たくさん考えてはみたけれど、考えすぎて何を考えればいいのか分からなくなった。  そんな私を知ってか知らずか、翔太くんからの誘いはあれからまだない。それともうひとつ、まさかあのタイミングで結衣子が青野くんの名前を出すとは思いもしなかった。  久しぶりに、ぼんやりと彼の顔を思い浮かべる。  青野くんは社会人になってから初めてできた彼氏だった。  彼が私を好きになってくれて、何度目かのデートの帰り道に、遠慮がちに告白をしてくれた。そして、頷く私を、やっぱり遠慮がちに抱きしめてくれた。  背が高くて、優しくて、物腰が柔らかくて、笑うとちっちゃな八重歯をひょっこり覗かせる。少年のような彼の笑顔が大好きだった。  青野くんの仕事はモデルだ。それも、高校生の頃からやっている。街でスカウトをされ、なんとなくで始めてみたところ、その風貌や雰囲気が話題となり、たちまち人気が出たそうだ。興味本意から本気に代わり、次第に夢が膨らんでいったという。その後、勢いだけで単身パリに渡り、二十歳の頃に有名ブランドのコレクションでランウェイを歩いてからは、怖いくらいに順調だったという。きっと、私には計り知れないほどの努力があったからこそだろうし、投げ出したいほどの苦悩なんかもあったかもしれない。それでもそれを見せないところが彼らしいと言えば彼らしい。  数年間パリで学んだあと、今度はニューヨークへ移り、パリでの経験を生かしつつ、さらに経歴を高めるためになんでも挑戦したと言っていた。その甲斐あってか、有名ブランドの公告に抜擢され、その名を一気に広めたのだ。  haruki aono。  その道の人なら誰もが知っていて、世界で活躍しているような彼が、どうして自分を選んでくれたのか、未だに謎で仕方がない。  海外で経験を積み、二年ほど前に日本に戻ってきてからも、ファッション誌の専属モデルを勤めたり、コレクションなどでも活躍していた。  「夢を夢では終わらせない」、いつだったか彼がそんなことを言った。  本当にその言葉通りだと思った。  彼のことは、出会った時から尊敬していた。もちろん、今でも尊敬している。  不満なんて、これっぽっちもなかった。  私も、青野くんと同じくらい彼のことが好きだった。それなのに、久しぶりに会った翔太くんにドキドキして、好きになった。たぶん、好きになった。  それが、ただの勢いにすぎなかったとしても、一瞬でも好きだと思ったことは間違いないのに、その気持ちが続かないということは、結衣子の言う通り、ただの気のせいだったのかもしれない。  誰かを好きになるのは簡単で、むしろ得意と言っても過言ではない。けれどその一人をずっと想い続けることは、ものすごく難しいことなのかもしれない。この先、ぶれない気持ちで誰かを想い続けることが、私にはできるのだろうか。
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