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彼の言葉は、中途半端に途切れた。ぽちゃん、と水が跳ねるような音が聞こえたからだ。はっとして、ディーデリヒは顔を上げた。
いつの間にか、周囲から音の殆どが消えている。
不自然なほどの静寂の中、湖畔に足を浸して座り込んでいる少年がいた。藍色の長い髪に、同じ色のキラキラした服を着ている少年。間違いない、彼が夜の神様――ナフトだ。
「アベント!」
「う、うん!お願い!」
ディーデリヒはナフトからバトンを受け取ると、両手をついてクラウチングスタートの構えを取った。身体も大きくないし、力も強くない自分だけれど。それでも、足の速さだけなら誰にも負けない自信がある。一気に駆け抜けて、このバトンを夕方から夜へと渡す。世界を救うために。
――ヨーイ、ドン!
心の中でピストルを撃ち鳴らし、一気に駆け出した。すぐにナフトが気づいて、驚いたようにこちらを振り返る。女の子のように繊細な顔、その目が驚愕に見開かれた。ディーデリヒが持っているバトンに気づいてかどうかはわからないが、すぐに逃げ出そうと立ち上がる。
だが、もう距離は相当詰まっている。ここからならば、よっぽどのことがない限り逃がしはしない。
「逃げんじゃねえ!」
ディーデリヒは、叫んだ。
「夜には夜の、あんたにはあんたの役目があんだろーが!そこから逃げるな!夜が来ない世界には、朝だって来ないんだよ!あんたを、明日を、待ってる奴がいないって本気で思ってんのか!!」
「!」
自分の言葉は、的外れかもしれない。逃げるな、なんて初対面の、それも神様相手に言うべきではないことくらいわかっていた。
それでも叫んだのは、知りたかったからだ。怒りでも、悲しみでも、理不尽さでもなんでも。とにかく感情を揺らさなければ、想いを伝えることなどできるはずもないのだから。
一瞬、彼の足が止まった刹那。ディーデリヒは少年の肩を掴んでこちらを向かせると――その手にしっかりとオレンジのバトンを叩きつけていた。
その瞬間、バトンは鮮やかなオレンジから藍色へと変化する。ざあああ、と世界から波が引いていくような音がした。空が夕方のオレンジから、藍色へと変わっていく。慌てたように太陽が沈み、顔を出す月。ああ、と。バトンを握らされたナフトが膝をつくのが見えた。
「……受け取りたくなかったのに」
彼は項垂れたまま、呟く。後ろから、アベントがこちらに駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「夜なんか、この世界には必要ないじゃないか。だからずっと、夕方のままでいいと思ったのに。俺がバトンを受け取らなかったら、そのままずっと世界は夕方のままでいられたのに……」
「何でそう思うんだよ。なんで夜なんか来ない方がいいって思うんだ」
「夜が来なければ、子供は家に帰らなくていいだろ。……遊んでいる子も、家に帰りたくない子も、みんな」
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