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「足元にお気をつけください」
車から降りようと把手に手を掛けるより先にドアが開いた。見上げるとこちらを見つめる視線とかち合う。和泉はなんと言ってよいのかもわからず無言のまま少し顎を引き了解の意を伝えた。
入院していたのはわずかに三日のことであったが、我が家を見るのはずいぶんと久しぶりのように和泉は感じた。まじまじと住み慣れた家を見ていると、背後で車のドアが閉まる音がして振り返る。何をするのかとぼんやり見ていると、降りたばかりの車が静かにスタートした。よく考えれば当然のことだが車を車庫に戻しに行くのだろう。齋藤はいつもそうしていたはずだ。しかしいまだ違和感は拭えていない。
彼ーーー西嶋は、齋藤の後任の執事であるという。
「うちの、執事……?」
誰かと尋ねた和泉に、一条家の執事であると答えた男にはやはり見覚えがなく、和泉は首を傾げた。
小さい頃から家にいて世話をしてくれていたのは、両親よりずっと歳上の齋藤という紳士だった。端正な顔立ちをした若い男が齋藤の後任だと言われても、違和感しかない。かといって齋藤が一条の家を辞してから果たして誰が執事として家のことを取り仕切っていたのかは、とんと思い出すことができなかった。確かに誰かがいたはずなのに。
医師からは事故の後遺症で一時的に記憶障害が生じているのだろうと言われた。確かに事故当時のことはまったく記憶になく、また目の前の男のこともすっぽりと頭から抜け落ちていた。
「ご不便をおかけするかと思いますが、どうぞお許しください」
戸惑う和泉に、西嶋と名乗った男はわずかに口元を緩め、言った。
出迎えた使用人に声をかけられながら和泉は家に入った。労いの言葉の端々に安堵を滲ませる彼らに、和泉は小さく礼を述べる。その誰も見覚えがあり、やはり記憶にないのは西嶋だけだった。
「おかえり」
「ただいま」
リビングに入ると、ソファに座っていた姉の佐和が振り返った。
「娑婆の空気はどう?」
「……出所したわけではないよ」
「だって退屈でしょ病院なんてさ。ご飯も美味しくないし。あ、真壁さんが今日はご馳走にするって言ってたよ」
「それは」
嬉しい、と言いかけたところでリビングのドアが開いた。目をやると、ティセットを持った西嶋が立っていた。
「おかえり。そしてご苦労さま」
西嶋は佐和に微笑を返すと、かちゃりと耳に心地よい音を立てながらお茶のセットを始めた。かすかに漂っていた紅茶の甘い香りが、カップに注がれると一段と強くなる。
「今日のおやつはなあに」
「マドレーヌでございます」
和泉の好きな洋菓子店の名を口にした西嶋は、透明な赤茶色をした紅茶とこんがりときつね色のマドレーヌを二人の前に置いた。佐和はためらいなく手にとって口に入れる。
「おいしいー!」
姉に倣って和泉もマドレーヌを一口食べると、アーモンドの香りが香ばしくおいしかった。何気なく顔を上げると西嶋が自分を見ていて、なんとなく居心地が悪くなり目をそらした。
「お疲れかと思いますが、少しお休みになられますか?あと少しすれば夕餉の時間となりますが」
「いや……いい」
「承知いたしました」
音のしない所作で立ち上がった西嶋は浅くお辞儀をし、リビングを出て行った。それを見送って視線を戻すと向かいに座った佐和が頬杖をついて和泉を見ていた。
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