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「本当に忘れちゃってるの」
佐和の唐突な言葉に和泉は一瞬ぽかんとしたが、すぐに西嶋のことであると思い当たる。目が覚めてからこれまで、和泉の身の回りの世話をしていたのは全て西嶋だった。
母親はちょうど海外への出向と重なり、医師からの説明を受けると翌日には病院から直接空港へと向かった。出張を取りやめると言った母を送り出したのは和泉だ。父親は夜中に病院へ来たが、寝ている息子を起こすことなく顔だけ見るとまた会社へ戻っていったのだとあとで聞いた。新事業の立ち上げに忙しいことを知っていたから、そのことに不満はない。むしろ両親が忙しい中顔を見に来てくれたことを和泉は嬉しく思った。
しかし両親がいかに多忙とはいえ息子を置いて仕事に戻れたのはひとえにこの執事のおかげであることは、和泉にもわかった。西嶋は非常に有能で、手抜かりは一つもない。まるで和泉の心の内まで読めるのではないかと思えるほどだった。
だから和泉としてはたった数日過ごしただけで、その献身的でさえある男のことを忘れていることに罪悪感を覚えていた。自然、頷く声も小さくなる。
「……うん」
「へえ、記憶喪失ってやつ?」
「健忘症というそうだよ」
「ドラマとか漫画の世界だと思ってた」
あっさりと言ってのけて、佐和はカップに口を付ける。つられて和泉もカップを手に取った。口に入れると懐かしい齋藤のそれと同じ味がした。
「でもなんで西嶋のことだけなんだろうね」
「それはわからないけど」
担当した初老の医師は、母親に難しい説明をしたあと、和泉に向けて穏やかに言った。
『人間の脳のことはまだよく分かっていないことがたくさんあります。どうして記憶するのか、忘れてしまうのか、まだ分かっていないことも多いくらいです。だから簡単に治るということはできませんが、記憶は忘れてしまっただけでなくなることはありません。焦らずにゆっくり思い出していきましょう』。
「ま、焦ってもどうしようもないんだし、変に気にしなくていいと思うよ」
言って佐和はあっけらかんと笑う。昨日次兄と電話で話したあとに彼から届いたメールにも、同じようなことが書かれていた。今はイギリスにいる次兄には昔から隠し事が難しくて、何も言わないのに落ち込んでいることが分かってしまう。メールにはよく休むように、という言葉と生まれたばかりの姪の写真が添付されていた。
「ありがとう」
「一番感謝すべきは西嶋に、だけどね。まあ、あの男は感謝なんていらないだろうけど」
「でも、申し訳なくて」
何くれとなく身辺の世話をしてくれるのに、まったく彼のことだけは記憶にない。そのことが申し訳なくて、心苦しい。しかし佐和はそんな和泉の思いを笑い飛ばした。
「今更だね。普段のあんたはよっぽどわがままに振る舞ってると思うけど」
「……僕が?」
「そうそう、それに西嶋も嬉々としてやってるみたいだから、そこは全然気にすることはないと思うけど?あの男はあんたのことに関しては盲目的だからねえ」
それには本当に応えようもなくて、和泉は黙ったまま西嶋の淹れた紅茶を飲んだ。
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