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「どうかしたのか」
西嶋が振り返ると、リビングから出てきた和泉が怪訝そうな顔で立っていた。西嶋はすぐに執事の顔に戻る。
「いいえ……お部屋に戻られますか?」
「うん、この間買った本を読もうかと思って」
「何かお飲み物をお持ちしましょう」
「じゃあ紅茶を」
言ってから階段を上がろうとしていた和泉は、思い出したように階段の途中で足を止めた。
「そういえばまだ言ってなかった」
何を、と西嶋は和泉を見る。和泉は一度言葉を切ってから、階段を降りて西嶋の前に立った。あまり背の高くない和泉は西嶋の顎の高さほどしかない。ちょうど見上げるような形で和泉は言った。
「悪かった」
謝罪の言葉に西嶋は驚いた顔をした。
「何を、」
「お前のことを忘れてしまっていたことを謝りたい」
「とんでもございません。私がもう少し早く迎えに行けばあんなことにはならなかったはずで」
「あれはお前のせいじゃないだろう。不可抗力だ。むしろお前がいなければどうなっていたか分からない」
しかし、と口にしかけた西嶋を、和泉は手をかざして止める。
「だからこそお前を忘れてしまっていたことを謝らせて欲しい。たとえ事故だったとしても、助けてくれた人のことを、しかも今は誰よりも近くにいるお前のことを忘れてしまっていたなんて」
真っ直ぐな視線を受け止めて表情を引き締めると、西嶋はゆっくりと話し始めた。
「あなたが気にやむ必要は少しもございません。あなたのお世話をすることが私の仕事で、そして今回のことは私の不徳の致すところ。せめて不自由のないようにと尽くすのは、使用人として当然のことです。どうか謝罪などなさらないで下さい」
「だとしても僕が悔しいんだ。よりにもよってお前を忘れてしまっていたことが。だからそのことは謝らせてくれ」
ごめんなさい、と頭を下げる和泉の前に西嶋は膝をついた。見上げてくる西嶋の顔は、器いっぱいに注がれた水が今にも溢れださんとするように、幸福に満ち満ちていた。
「どうか本当に謝らないで下さい。確かにあなたに忘れられることは、他の誰に忘れられるよりも悲しいでしょう。しかしそれ以上に私にとって辛いことは、あなたのお傍にいられなくなること。あなたは記憶のどこかに仕舞ってしまったはずの私のことを傍に置いてくださいました。私はそれだけで十分過ぎるほど幸せです」
さあお部屋へどうぞ、とやんわりと背を押されて和泉は階段を上がった。どう言ってもこれ以上聞いてはくれないだろうとため息をつく。
記憶を失っていた間のことはよく覚えている。西嶋は、自分のことを忘れてしまった不甲斐ない主人に、いつもと変わらず仕えてくれた。不満な顔など一つも見せずに。
あの時、西嶋に問うたこと。
『あなたは僕にとって本当にただの使用人なのでしょうか』
その質問の意味。
『僕はあなたのことを、』
そして続くはずだった言葉は、今まで気がついていなかった事実。
なぜ西嶋のことだけ忘れてしまったのかは分からない。けれど、そのおかげで分かりえたことがひとつだけあった。
しかし勿論それは、誰にも言わない主人の秘密、である。
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