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プロローグ
ピピっと控えめな音が存在を主張するように軽快な音を立てた。小さな液晶のデジタル表示を確認する。催促するような視線に促されて、和泉は仕方なさそうに腋に挟んでいた体温計を差し出した。
「37度5分。熱がありますね」
朝も早くから一分の隙もなく黒のスーツを着こなした西嶋は受け取った体温計を一瞥すると、にべもなく言い放った。そんな執事を、和泉は悪戯の見つかった子犬のように見上げる。
「そんな顔をしても駄目ですよ。学校はお休みしてください」
「分かっている」
「今日は一日寝ていてくださいね」
「分かっている」
「お休みだからと言ってこれ幸いと本を読んでいてはいけませんよ?」
「……分かっている」
最後の答えはどうにも怪しいものだったが「言いましたからね」と念押しすると、渋々と頷いた。全く、とため息をついた西嶋は、まだ往生際悪く制服を着たままの和泉の上着を脱がせると皺にならないようハンガーに掛けた。
「とにかく着替えたら病院に行きましょう」
「そんな大した風邪じゃない」
「なぜあなたにそんなことが分かるんです?あなたは医者ではないでしょう」
「自分の体のことだから分かる」
「お医者さまに診ていただいて、きちんとお薬を飲むのが一番早く治りますよ」
「寝てれば治るから。明日まで治らなかったら病院に行く」
こうなったら梃子でも動かないと知っている西嶋は、これ以上言っても仕方がないと諦めて新しい寝間着を渡した。
「食欲はありますか?」
「ない、こともない」
「ならお粥をお持ちします」
「たくさんはいらない」
子供のような言いように、西嶋は困ったように微笑った。いつもは大人びた顔をしているのに、こういう時は途端に子供っぽくなるのだ。
寝間着に着替えた和泉がベッドに腰掛けて西嶋を見上げた。
「今日は八千代さんと約束があるんじゃなかったか」
「ええ」
八千代さんとは、西嶋がこの家に来る前に一条家の執事をしていた齋藤という男の奥方である。この齋藤は非常に優秀な男で、執事としてはもちろんのこと、なんの知識も経験もなかった西嶋を完璧な執事に教育した人物だった。
その厳しさたるを和泉は知らないが、何があろうと丁寧な物腰を崩さない西嶋が齋藤のことになると途端にぞんざいになるのは知っている。自分には見せない顔を知るたびに自分の方が長い付き合いなのに、と和泉はどちらにともつかない嫉妬心のようなもやもやを感じるのだった。
「申し訳ないですが、お断りの電話をしておきます」
「何言ってるんだ。僕のはただの風邪なのだから寝てれば治る」
「しかし、ご病気の和泉様を放っていくわけには参りません」
「駄目だ。八千代さんとの約束を反故にするなんて許さない」
齋藤もその奥方である八千代さんも和泉にとっては家族同然に大切な存在だった。それを自分のために約束を破るなんてことは和泉には出来ない相談だった。
「しかし……」
「いいからちゃんと行ってこい。もし行かないというなら僕の部屋には一歩も入れない」
困ったように眉を寄せた執事と、頑として譲らない主人が見合うことしばし。根負けしたように「分かりました」とため息をついた西嶋は「ただし」と付け加えるのを忘れなかった。
「お薬はちゃんと飲んでくださいね。粉薬でも」
「……粉薬じゃないやつはないのか」
「ございません」
和泉が頷いたのを確認してから西嶋は部屋を出る。今からお粥を作って、食べさせてから薬を飲ませなければならない。猫舌の主人のこと、あまり熱いまま出しては時間が掛かるから少し冷ましてから出さなければ。あと粉薬は苦くて嫌いだからオブラートが必要だが、はてどこに片付けただろうか……。きりっと美しい姿勢のまま廊下を歩く彼の頭の中に、今日の段取りが積み上がって行く。
こうして有能なる執事の忙しい1日は始まったのだった。
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