蜂の少女とシベリアンハスキーの大男

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 右側が少し削られた、半月以上満月未満の不格好な月。 その煌々とした光に照らされて、私の尻の針も鋭く光る。  羽を動かして夜の森を見廻る。夜は獰猛な肉食獣もいて恐ろしいが、私がこうして出掛けるのには理由があった。  女手一つで私たちを育ててきた母が、数日前から巣に帰って来ていないのだ。  未だ成蜂していない私と弟を置いてあの子煩悩な母が帰って来ないはずがない。  弟は「ママを探しに行こうよ。危ない目に遭っているかもしれないし、道に迷っているのかもしれないよ」と泣きじゃくるが彼はまだ上手く飛べない。私が行くしかなかった。 「ママ、ママ? どこにいるの?」  夜の深い静けさはひとつの揺らぎすら許さない。  私の声はあっという間に木に吸収されて、再び無音が私を襲う。  私、怖がりなのに。  今までも夜遊びは蜂並みにしてきたが、一蜂で夜出歩くのは初めてで、全身が震え始める。 「うう、うう……」  森の奥から低い唸り声が聞こえて来た。  叫びそうになるのを堪え、慌てて声のほうから遠ざかろうとしたが、その声はとても苦しそうだった。まるで私の助けを待っているようだ。  自分のお蜂好しさに呆れつつ声のほうへ飛んでいくと、灰色の大きな毛玉に出会った。 「どうしたの」  私が声を掛けると毛玉はもぞもぞと動いて私のほうに視線を向ける。  それは鼻先がすっと前に長く、目がきゅっと吊り上がった獣だった。  彼は驚いた様子だったが、 「なんだかお腹が痛くて気持ち悪くて、とにかく気分が最悪なんだ」  と言った。その苦しさゆえか、口ががくがくと開いたり閉じたりしている。  私は彼に近付いて、そのふわふわの毛の奥に針を差し込んだ。硬い皮膚に当たって、彼は怯えた目でこちらを見る。 「少しちくっとするけど我慢して」  私が針を皮膚に押し込むと、彼はぎゅっと目をつぶった。しかし針を抜いた途端彼の表情は穏やかになった。 「あれ、すごく楽になった……」 「麻痺作用のある毒を少しだけ入れたんだよ。量を調節したから体調に影響はしない、安心して」 「君はすごいんだね、ありがとう」  彼はその大きな前脚で私の羽を撫でる。  心配だからここにいてよ、と愚図る彼の背中に腰を下ろした。 「シベリアンハスキーが怖くないの?」 「怖くないわけないでしょう。でも困っている獣を放っておけない性格なの」 「君は優しいね……何かお礼をしたいんだけど、欲しいものはある? 木の実とかならいくらでも」  そう言う彼に私は、背に乗せて母親探しを手伝ってくれないかと言った。  そんなことで良いのか、と驚きながら彼はその大きな一歩を踏み出す。私は振り落とされそうだったが必死で彼の毛に掴まった。  結局、母は見つからなかった。  進んでも進んでも静かな森しかない。 「ごめん、力になれなくて」  悲しそうな顔をしてそう言うものだから、私は毎日彼の元へ行ってその背中に乗せてもらう約束をして巣に帰った。  それから毎日のように彼の元へ通ったが、母はどこにもいなかった。  その穴を埋めるように、彼はたくさん私に話しかけてくれた。自分の家族がいないことを話したときの、今にも泣きそうな表情が印象に強く残っている。  左側が少し削られた、半月以上満月未満の不格好な月の輝く日、彼は特にたくさん私に想いを語ってくれた。 「僕は寒がりで怖がりだから、君はもちろんここに来たくはないだろうけど君と一緒にいられて幸せだよ」 「君の黄色と黒の身体はとても綺麗だね。最近、黄色い花を見かけると君だと思って期待してしまうんだ」  といったような調子だ。  まるで愛の告白じゃない、と私が言うと、彼は頬を真っ赤に染めて、 「ちが、くもない、かもしれない……」  とつぶやいた。  私と目が合うとすぐに顔をそらして、この日はどこかへ走って行ってしまった。  翌日、空には満月が浮かび、より一層強い輝きを放つ。  いつもより獣たちの遠吠えが響く森は不安感を煽った。満月の夜はいつもと違う空気が漂う。  私はまた彼の特等席に飛んでいった。特等席とは、少し開けた場所にある切り株のことだ。彼はよくここで星空を眺めていた。 「ぐるるる……」  しかし切り株の上にいたのは眼光鋭いただの獣だった。  目が合ってすぐに物凄い勢いで私のほうに駆けてくる。  大きな口を開けて、一瞬で肉を切り裂くような牙を見せている。 「ハスキーさん、私、あなたが本当は狼だって知ってたの。だってあなたがママをその口に入れるのをこの目で見たもの」  私は手を広げて叫んだ。仲間と夜遊びをして巣に帰る道中に見た光景がフラッシュバックする。  彼にはこの声はまったく届いていないのか、一切の迷いなくこちらに走り続ける。 「満月の光を浴びると獰猛な狼の本能があなたの優しさまで呑み込んでしまう。この一ヶ月でどうにか出来ないかって思っていたんだけど、あなたとの日々が楽しくてそんなこと考えられなかった」  もちろん彼のその習性をどうにかしたいと思ったのには、仲間の蜂も守りたいという思いもあった。しかしその大きな理由は彼自身のためだった。 「あなたは蜂を食べたら腹を痛めるわ。あなたは同族……そう、狼しか食べられないのよ。きっと家族だってあなたが……」  そこまで言って私は口を閉じた。  目の前に彼の大きな身体が迫っている。  目をぎゅっとつぶり、口をきつく結ぶ。  しかし痛みはなかった。  目の前で、彼はその足を止めていた。口はどうにか閉じられ、見開かれた瞳からは大粒の涙が流れ落ちている。 「ごめ、ん……ごめんなさい……」  彼は必死に喉の奥からその言葉だけを絞り出すと、再びゆっくりと口を大きく開く。  頬に涙が止めどなく伝い、私はにっこりと笑ったまま、視界は真っ暗になった。  意識がぷつんと途切れる直前、大粒の雨が私を叩いたような気がした。
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