お帰りの際は……

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「いらっしゃいませ」 「……ここは、どこですか?」 おしゃれなカフェに立っていた。 いつの間に、こんなところに来ていたんだろう。 記憶を辿ってみるけれど、直前までの行動が思い出せない。 「ただのカフェですよ。ハーブティーでもいかがですか?」 上品に微笑むウエイターの耳が尖っていることに気づく。 よく見ると彼の目は紫色をしていた。 ――あぁ、夢を見ているんだ。 さっきから、水の中にいるような不思議な感覚がしていた。 ふわふわと足元がおぼつかないような。 何かが肌に(まと)わりつくような。 音が遠くから聞こえるような。 目に映る物の色彩がどことなく違って見えるような。 そんな感じ。 それでいて、どこか懐かしい匂いがしていた。 ウエイターに促されるまま、部屋の中央に1つだけ置かれたテーブルへと足を進める。 恐怖心はなかった。 大きな窓から差し込む柔らかな()のせいか、むしろ安心感に包まれていた。 「どうぞ」 「ありがとう」 1人掛けのソファに腰を下ろす。 反発しすぎず、沈みこみすぎず、まるで私のために作られたのではないかと思えるほどに、座り心地の良いソファだった。 「おすすめはカモミールティーとラベンダーティーですが、いかがでしょう?」 「そうね。カモミールティーをお願いします」 「かしこまりました」 恭しく一礼をしてから彼は去っていく。 その姿を見送りながら、深く息をついた。 なんだか、ひどく疲れている。 背もたれに体重を預けると、すぐにでも眠ってしまいそうになった。 夢の中でも睡魔は襲ってくるのね。 抗おうとするけれど、瞼は自然と下がってくる。 このままお昼寝ができたら、どんなに気持ちいいだろうか。 きっと、今日はとても忙しかったんだわ。 くたくたになるまで動いたから、夢でもこんなに眠いのね。 そんなことを考えていたら。 「お待たせいたしました」 いつの間にか目の前には先ほどのウエイターが、小さなワゴンと共に立っていた。 ほんのりとフローラル系の香りが鼻をくすぐる。 無駄のない動作でカモミールティーをカップに注いでくれる姿は、まるで美しい絵画を見ているようだった。 あぁ、最近、美術館に行く暇がなかったな。 ふと、そんなことを思い出す。 「よかったら、こちらもご一緒どうぞ」 差し出されたのは小振りのマカロンの盛り合わせ。 様々な淡い色をしたそれは、水彩画のようだった。 「いただきます」 まずはお茶を一口。 爽やかな香りが口腔から鼻腔へと通り抜ける。 よく「りんごのような香り」と表現されるカモミールだけれども、どちらかというと私は昼下がりの花畑のようなイメージがあった。 目を閉じると、そんな情景が頭の中に浮かんでくる。 久しぶりに絵を描いてみたい。 そんな思いもわき上がってきた。 そうか、私は絵が好きなのね。 少しずつ記憶が蘇っていく。 大きなキャンバスを前に絵筆を握っている自分の姿がイメージできた。 何か大事な物を描かなければいけなかったような気がする。 「お気に召しませんでしたか?」 「え?」 「眉間に皺が」 「あぁ。いえ、考え事をしていて」 もう一口、お茶を飲んだ。 緊張がほぐれていくように、体の力が抜けていく。 「とても美味しいです」 そう告げると、紫の眼の彼は柔らかく微笑んで小さく頷いてくれた。 余計なことは考えたくなくなる。 マカロンにも手を伸ばす。 様々な色があって迷ってしまう。 間に挟まれたガナッシュの色も違うから、おそらく味もそれぞれなのだろう。 結局、1番上にあった薄桃色の物を手に取った。 一口サイズのそれを口に放り込む。 軽く歯を立てるとサラサラと崩れていくように溶けだし、爽やかな甘みが口腔内を埋め尽くす。 ほんのりと香るベリー系の酸味が、ただ甘ったるいだけではなく後味をさっぱりさせてくれた。 ほんの一瞬でなくなってしまうだなんて、とても儚いお菓子よね。 非現実的な状況のせいか、センチメンタルな気持ちになる。 傍らのウエイターを見上げると、彼は笑顔を絶やさずに言う。 「(わたくし)は奥に控えておりますので、何かございましたらお申し付けください」 ほんの少し残念に思う。 人外の青年と話してみたかったからだ。 でも、何を話せばいいのか思いつかない。 まぁ、夢なんだし。 「ごゆっくりおくつろぎください」 「ありがとうございます」 先ほどと同様に、流れるように一礼をしてから去っていく彼の後ろ姿を見送る。 また、強い眠気が襲ってきた。 今度は抗えそうにはない。 私はそのまま瞼を閉じた。
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