Goodbye, weakness.

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 例年に比べて長く続いた梅雨が明け、夏の始まりを報せる蝉の声が一斉に響きだした八月某日。  とあるニュースが日本全土を震撼させた。 『女優 東雲(しののめ)すみか(28)死亡 自宅で首吊り自殺か』  そのあまりにも早すぎる訃報はたちまちSNS上で拡散され、多くの悲しみの声と共に夏日最初のトップニュースを飾った。  各新聞やテレビの報道番組では、彼女の死を悼む言葉と共に女優〈東雲すみか〉が残した多くの功績を称える特集が組まれ、彼女の死の真相や発見に至るまでの経緯が記事として、議論として、多くの人の目に留まった。  そんな彼女の死を僕が知ったのは、周りから遅れて約一週間後のことだった。  *** 「——ってかさぁ、東雲すみか死んだの、やっぱ男女関係じゃね? マジでキツいんだけど」 「それな。俺、めっちゃ好きだったのに。写真集も買ったし、出演してる作品だってほとんど観てたのにさ」 「あ、でも、次の映画は普通に公開するらしい。ほら、何だっけ、波風の……」 「波風(なみかぜ)幻想曲(ファンタジア)?」 「そう、それ。せっかくだし、今度観に行こうぜ。東雲すみかの遺作だから、公開から数日はどこの映画館も満員御礼だろうけど。アキも行くだろ?」  八月の空気にもようやく慣れてきたある日の午後。  冷房の効いたファミレスの窓際席に腰かけながら、真夏の蒼穹に浮かぶ真白な積乱雲をぼんやり眺めていると、テーブルを挟んで向かい側に座るリョウにふと声を掛けられた。  僕は咥えたままだったストローから一度口を離し、リョウに目を向ける。 「……なんだって?」 「いや、だから、お前も一緒に映画行くだろって。大事な話してんだからちゃんと聞いとけよな」 「アキって時々、魂抜けてることあるよな。うっかり召されないように気を付けろよ」  やや呆れた様子で先程の言葉を繰り返すリョウと、その隣に座って呆けたような顔の僕に揶揄い交じりの笑みを浮かべるキョウスケ。  僕はそんな二人に向かって、今一度尋ねる。 「……そうじゃなくて、東雲すみかがどうしたって?」 「は? だから、東雲すみかの遺作だし——」 「遺作? ……東雲すみか、死んだの?」 「さっきからその話してんだろうが。……ってか、えっ、もしかしてアキ、お前知らなかったの?」 「うん」 「……マジかよ」  予想外のカミングアウトに頭を抱えだす二人。 「前々から周りとずれてるとは思ってたけど、まさかここまでとは……」とリョウが。 「もう少し世間に目を向けた方がいいぞ」とキョウスケが。それぞれ僕の身を案じてか、心配の言葉をかけてくれた。  二人の言う通り、僕には少し周りとずれているところがある。  例えば、僕は基本SNSを利用しない。スマートフォンの携帯が当たり前になったこの世の中で、SNSの利用はほとんど生活の一部となっている。言うなれば、スマートフォンが人間にとって第二の脳であり、SNSは第二の感覚器官だ。一応、僕もスマートフォンは所持しているが、SNSの類は全くと言っていいほど利用していない。  つまり僕は、人間にとっての第二の感覚器官を有していないのだ。  加えて、テレビ番組や新聞といったメディア媒体だって基本観ないし読むこともない。  そのため、外部の情報が僕の元に入ってくることはほどんどない。  例えそれが、日本全土を震撼させるような重大な情報だとしても——。  だから僕は、二人にもう一度訊ねる。 「いつ、死んだの?」 「正確な日時は分からん。でも、東雲すみかが自宅で自殺したって報道があったのは六日前。弟の部活の練習試合を観に行った日だからよく覚えてる」  ——六日前……。  僕はグラスの表面を水滴が流れ落ちていく様をじっと見つめながら、小さく口を開く。 「そっか」  本当はもっと違う言葉が出てきても良かったはずなのに、その時の僕にはそんな言葉しか浮かんでこなかった。  カラン、とグラスの中の氷が音を立てて崩れる。 「……なぁ、大丈夫か? もしかして、アキも東雲すみかの大ファンだった?」 「ははっ、それなら辛いわ。大ファン同士、写真集でも見返して心の傷癒やそうぜ」  僕が淡白な返しをしてしまったせいか、リョウとキョウスケは大きな勘違いをしてしまっている。  そんな二人に向かって僕はそっと目を閉じ、微笑を携えながら言葉を返す。 「別に、そんなんじゃないよ」 「本当かよ」 「うん」 「ならいいけど。そんじゃあ、アキも例の映画公開されたら一緒に見に行こうな。具体的な日程は……まぁ、後々ってことで」  それから話題は、昨日動画投稿サイトで生配信されたオンラインゲームの大規模大会の感想へと移り変わり、リョウとキョウスケは互いに顔を向かい合わせながら、どのプレイヤーのプレイスキルが最も高かったかなどについて熱く議論をし始めた。  すっかり蚊帳の外に追い出されてしまった僕は、グラスに突き刺さったままのストローを咥え直し、氷が溶け出したせいで薄まってしまったコーラを一口啜る。  窓の外には胸焼けしそうなほどの青い空と畏怖の念すら抱きそうになる巨大な積乱雲。  そのあまりにも鮮烈すぎる夏の情景が、僕の心臓を痛いほど強く締めつけた。  ふと、先程リョウたちに向けて放った自分の言葉が頭の中で再生される。 『別に、そんなんじゃないよ』  ……本当に、そんなんじゃないんだ。  特別、彼女に興味があったわけではないし、強い憧れや好意を抱いていたわけでもない。ましてやファンですらなかったと思う。  彼女が普段どんな表情で大衆の前に姿を見せていたのか、どんな演技で大衆を魅了していたのか、外の世界と隔絶した生活を送っていた僕はほとんど知らない。  ——だけど。  ……だけど、たった一度だけ、彼女と二人きりで話をしたことがある。  木陰に響く蝉時雨。  アスファルトを焦がす夏の日差し。  どこまでも澄んだ青い空と、天まで届く真っ白な入道雲。  時折海からやって来る潮風と、幻影のように漂い続ける煙草の煙。  忘れもしない。  暑い暑い八月の、僕と彼女だけが知っている、あの夏の日の記憶——。  *** 「——少年」  ふと、背後から声を掛けられた。  僕は一度足を止め、声のした方向に目を向ける。 「なんですか」  恐る恐るそう問うと、声の主は咥えていた煙草を口から離し、ふうっと小さく煙を吐き出した。 「なんだか浮かない顔をしているな、少年」  そう言って微笑を携える彼女の顔には、見覚えがあった。  八月に取り残された、雪の如き白い肌。  夜空を紡いで出来た漆黒の髪。  力強く引かれた深紅のルージュ。  人の心を見透かすようなアッシュグレーの瞳。  自由気ままに流れる雲さえも立ち止まらせてしまう、強く透き通った声。  そんな〝美〟の塊が今、僕を見ているという現実に困惑しながら言葉を返す。 「……そう、見えますか?」 「あぁ、見えるね」 「そうですか。……でも、別に大したことじゃないんです。ただ——」 「ただ?」  興味深そうにこちらを見つめる彼女。  そんな彼女から目を逸らすように言葉を続ける。 「……煙草を吸っているイメージが、全くなかったもので」  彼女は一瞬キョトンとした表情を浮かべると、僕と指に挟んだ煙草を交互に見比べてから、何かを探るかのように静かに問いかけた。 「少年は、私のことを知っているのか……?」  あまりにも可笑しな質問に、僕は思わず頬を緩める。 「この国に住んでいて、あなたのことを知らない人はいないと思いますよ」 「ははっ、それは嬉しいことだ。同時に悪いことをした。……まさか、こんなところで幼気(いたいけ)な少年の理想を壊してしまうとは。いや、本当にすまない」  そう言って、彼女——東雲(しののめ)すみかは、女優とは思えないほど下手な演技を交えながら、その蠱惑的な瞳を優しく僕へと向けてみせた。  ***  〈東雲すみか〉と聞いて、その輝かしい経歴、美しい相貌を思い浮かべない人はごく僅かだろう。大抵の人間はその名を耳にしただけで、彼女が一体どういった存在なのか瞬時に理解する。  十八歳、高校卒業と同時に某芸能事務所に入所。  二十一歳、歴代最年少で日本アカデミー賞主演女優賞を獲得。  その三年後、世界三大映画祭の一つ『カンヌ国際映画祭』にて、日本人初となる女優賞にノミネート。  その後、役者職のみならずモデルやアーティストとしての活動もスタートし、その全てで成功を収め、現在に至る。  外の情報に疎い僕が知っているのは、たったこれだけ。故意に調べることをせず、なんとなくテレビや雑誌、インターネットの検索画面を眺めているだけでもこれだけの情報が入ってくる。仮に彼女が残した偉業を全て上げようとすれば、きりがないのは明白だった。  女優〈東雲すみか〉の存在は今後百年……いや、未来永劫歴史に残り続けることだろう。  そんな生ける偉業、闊歩する〝美〟が今、僕の目の前にいる。  月のように妖しく輝く瞳に僕を映し、僕に向かって話しかけている。  あの『東雲すみか』と、対話をしている。  それはアスファルトの上で揺らめく淡い陽炎。現実感のない白昼夢。  まるで、夏の亡霊に化かされている気分だった。 「最初から、理想なんて抱いてませんよ」  僕がそう言葉を返すと、亡霊のような彼女は「そういうことにしておこう」と僕の言葉を軽く受け流し、指に挟んだ煙草の先の灰をトンっと、ひび割れたアスファルトの上に落した。  実際、彼女が喫煙者であることなどどうでも良かった。  そんなことより何故彼女が……東雲すみかが、こんな海と灯台くらいしか見るものの無い田舎町にいるのかということの方が、よっぽど僕の頭を悩ませていた。  眼下には白波を立てて穏やかにうねる青い海が広がり、水平線の向こうには目が眩むほど白く大きな入道雲。時折下からやって来る潮風は、木陰を生み出す緑の葉を優しく揺らして去っていく。  そんな緩慢な時の流れを遮るかのように、塗装が剥がれかけた白のガードパイプに体を預ける彼女は、再び僕に向かって話を始めた。 「映画の撮影でね、三日前にやって来て今日までこっちにいる予定なんだ。撮影が終わり次第すぐ帰る」 「そうですか」  まるでこちらの考えを読んだかのような言葉に多少驚きながらも、僕は静かに相槌を打つ。  それから彼女は指に挟んだ煙草を咥えて一息煙を吐き出すと、後方の海へと体を向けた。 「それにしても、ここはいい街だな。何て言ったって景色がいい。東京にはない景色だ。それに風も。出来る事なら、仕事じゃなくプライベートで来たかった」 「何もない、退屈なだけの街だと思いますけど」 「そんなことはないさ。……でもまぁ、この街に暮らす人々からすればこの景色も風も、あって当たり前のものなんだろうな」  そう言って彼女は再び海の方に背を向けると、ガードパイプに軽く腰を下ろし、僕に向かって「こっちへ来い」と、軽く二度手招きをした。僕はまるで目に見えない何かに引っ張られるかのようにして彼女の隣へと脚を動かす。  そうして、あの『東雲すみか』に触れられる距離まで来たところで、微かにベルガモットの柔らかな香りと染みるような煙草の苦い薫りが僕の鼻腔を刺激した。 「人前では絶対に吸うな、とマネージャーからきつく言われていたんだが、こんな景色を前にしてしまっては吸わずにいられない。……そうは思わないか?」 「あいにくまだ未成年なもので、喫煙者の気持ちは理解できません」 「はははっ、それはそうだ。変なことを訊いてすまないな」 「いえ、……別に」  女優としての東雲すみかがどうかは知らないが、少なくても今僕の隣にいる彼女はよく笑う人のようだ。  僕はそんな彼女に対する警戒レベルを少し下げながら、宙に昇っては溶けていく紫煙の様子を目で追った。 「それで、最初の話に戻るが——」  自然とシーンを切り替えるように、隣に腰かける彼女の口が開いた。  僕はそっと、彼女の佳麗な横顔を見上げる。 「なんだか浮かない顔をしているな、少年」  先程とは打って変わり、まるで舞台の上にいるかのような深い落ち着きのある声音で、彼女は言う。 「……一体、何なんですか」  暗く冷たい深海で泡が産まれるような重く静かな声音が、物質となって僕の身体に圧し掛かる。まるで、僕の周りだけ重力が少し強まったみたいだ。  そして、理解する。  魅了を生業とする彼女にとって言葉や空気なんてものは、あくまで魅了の対象の一つに過ぎないのだと。  それから彼女は、アメリカン映画の真似事をするみたいに仰々しく首をすくめて、僕の問いに答えた。 「私が喫煙者であることをマスコミにばらされると、いろいろと面倒なことになるんだ。主に〝私を雇用している奴らが〟だがな。……だから、口止め料の代わりとして悩みの一つくらい聞いてやると言っているんだ」 「……悩み、ですか」 「あぁ。少年くらいの年頃だと、誰かに聞いてもらいたい悩みの一つや二つあるだろう。遠慮せずに言ってみろ。……これは、対等な取引なんだからな」  そう言って彼女は、アッシュグレーの瞳を僕に向ける。  ——本当に、見透かされているみたいだ……。  僕は無意識のうちに吊り上がっていた口の端をもとに戻しながら、〝それ〟を彼女に話すべきかどうかよく考える。  潮の香りを(はら)んだ涼風が吹き、八月の陽光を透かす緑葉が騒めき、アスファルトを叩く蝉時雨が街中に響いた。  今まで、誰にも言えなかった僕の悩み。  クラスの友人にも、学校の先生にも、家族にだって言ったことがない悩み。  そもそも、今まで誰かに聞いてもらいたいと思ったことがなかった。  どうせ誰も理解できない。解決することはできない。  ただ、「変わってるやつだ」と笑われて終わり。  だから、ずっと隠して生きてきた。  誰にも打ち明けず、決して悟られないように、慎重に生きてきた。  それなのに彼女は、通り過ぎる僕の横顔を見ただけで、胸の奥底にしまっていたものを暴いてみせた。  彼女の前では、嘘も誤魔化しも意味を成さない。  本当の悩みを打ち明けるならば、今しかない。  僕はそっと彼女の瞳を見返す。  東雲すみか。生きる偉業、闊歩する美と称される現代の大女優。  あらゆる人格、人生を追体験した彼女なら、僕の悩みを理解できるのかもしれない。  何より、彼女は他人だ。  例え地球の裏側の人間と深い絆を築けたとしても、彼女とそれは築けない。  本来、こうして言葉を交わすことすら叶わないはずの、遠すぎる他人。  今後、彼女とこうして話をする機会は訪れないだろう。  だからこそ、この悩みを打ち明けられる相手は彼女の他にいないと思った。  隣で彼女の吐いた煙が、風に呑まれていく。  僕は、その煙が消えてなくなるのを見送ってから口を開いた。 「……東雲さんは自分の将来について考えるとき、漠然とした不安や得体のしれない恐怖を感じた経験って、ありませんか」 「なんだ突然。将来? 不安? 恐怖? ……ひょっとして、それが少年の悩みなのか?」  僕は彼女からの問いに言葉を返すことなく、ただ、足元の黒い影だけにじっと目を向ける。こうしていると、その黒く不気味な影に身体ごと僕の悩みが吸い込まれていくような気がして、少し気持ちが楽になる。  彼女はそんな僕をしばらく観察した後で、すっかり短くなった煙草を携帯灰皿にしまい込むと、スキニーパンツのポケットから新たな煙草を一本取り出し、それに火を点けた。  そうして吸い込んだ煙を八月の空に向けて深く吐き出しながら、彼女はぽつりと小さく口を開く。 「——そりゃあ、もちろんあるさ」 「えっ……?」  予想外の返答に思わず声が漏れ、反射的に彼女の横顔に目が向いた。  自分で訊いておいて何だが、正直そんな答えが返って来るとは思っていなかった。  彼女は僕が知っている人間とは大きくかけ離れた存在で、僕みたいな普通の人間とは共通する部分が存在しない。  ずっと、そう思っていた。  だから彼女の口から、そんないたって普通の答えが返って来るなんて思ってもいなかった。  僕は繰り返し尋ねる。 「……あるんですか?」 「当たり前だろう。人間である以上、誰だって少なからず将来に対する不安や恐怖は持ち合わせているさ。……なんだ、その目は」 「……あぁ、いえ、正直意外だったもので。てっきり、あなたのような何もかもを超越した存在には、僕みたいな人間の感じる不安や恐怖が一切無いのだと思ってました」 「おいおい、なんだそれは……。少年は私を神か何かと勘違いしているんじゃないか?」 「僕のような平凡な人間にとっては、神もあなたも似たようなものですよ」  実際、これから話す悩みは神様にだって明かしたことのないものだ。  存在すら曖昧で、特に何か行動を起こすわけでもないものに話すより、今確実に僕の隣に存在する彼女に話した方が、僕にとっても彼女にとってもよっぽど有意義な時間になるだろう。  僕は呆れるように煙草を吹かすそんな彼女を横目にしながら、一つ大きく息を吐く。  それから、彼女が吸った煙を全て吐き終わるのを待って、僕は口を開いた。 「……希望を持って生きることが、すごく怖いんです」 「…………」  ほんの一瞬、彼女は興味深いものを見るように僕へと視線を向け、相槌すら打つことなく、無言で僕に「続けろ」と促した。  僕はそんな彼女の厚意を受け取り、訥々(とつとつ)と話を続ける。 「ちょうどさっきまで、学校にいたところなんです。今は、その帰りで」 「夏休みだっていうのにか? まったく、学生も大変だな。しかし、見たところ部活帰りというわけじゃなさそうだな」 「えぇ、まぁ、そうですね。あくまで個人的な用事です。……担任に、呼び出されてしまって」 「何かやらかしたのか?」  彼女は僕が話しやすいようにと思ってか、今度は会話形式で話を目的地へと導いてくれる。僕はそんな彼女の問いかけに心を預けるように、一つ一つ答えを返していく。 「先生からしてみれば、確かに僕はやらかしてしまったんでしょう。なんて言ったって、貴重な夏休みの数時間を僕が奪ってしまったわけですからね」 「先生だって、そこのところは仕事だと思って割り切ってると思うぞ。……それで? 少年は一体何をしたんだ」  彼女は絶えず煙草の煙を漂わせながら、まるで劇を進めるかのように落ち着いた声音で問いかける。  それがあまりにも自然で、僕が話を進めているのか、それとも彼女が話を進めているのか、次第に会話の主導権がどちらにあるのか曖昧になっていき、まさに今この瞬間、僕は見えない観客たちに囲まれた舞台の上にいるんじゃないかと一瞬疑ってしまった。  僕は肌を伝う汗の感触やどこかで鳴り響く蝉の声、隣から香る爽やかなベルガモットと目に染みる煙草の匂いを強く意識し、これが現実であることを今一度確認して彼女に言う。 「一学期の終わりに、学年対象の進路希望調査が行われたんです。僕たち中学三年にとってはこれが中学生活最後の夏で、この季節が終わればみんな本格的に受験モードに入ることになります。  今回行われた進路希望調査では、そんな高校受験に対する進路調査に加えて、高校卒業後の進路についても自分の考えを書いて提出しないといけないことになったんです。……正直、高校入学すらまだ果たしていないのに、さらに先のことを訊くなんてせっかちにもほどがあると思いましたよ」  そう言って、僕はハハッと乾いた笑いを漏らしながら控えめに肩を竦めてみせる。  一応言っておくけれど、僕は別に進路希望調査が悪いと言っているわけじゃない。  実際、進学先の高校を選ぶにしても周りに流されるままなんとなく選ぶのと、将来を見据えて選ぶのでは明確な違いがある。だから、高校卒業後の進路について考えさせることも必要なことだと思っている。  問題なのは、進路希望調査の提出期限が一週間であったことだ。  突然、三年先、五年先、十年先のことを考えろを言われて、それをたった一週間で小さな紙切れにまとめることなど到底不可能だと思った。  現に今、僕たちの中で明瞭な将来像を描けている者はほんの僅かしかいないだろう。  ……ひょっとすると、誰一人として存在していないかもしれない。  彼女はそんな僕の話を聞いて深紅のルージュが引かれた唇からふうっと小さく煙を吐き出すと、興味深そうな目を向けて僕に尋ねた。 「——それで、少年は一体何と書いて提出したんだ?」  僕はそんな誰もが抱くような当たり前の問いに対して、微笑を携えながら静かにこう答える。 「提出しませんでした。それどころか、書いてすらいません」 「……だろうな」  彼女はそう言うと、少し優しく呆れたように笑ってみせた。 「……分かっていて訊いたんですか?」 「いいや? ただ、私だったらそうすると思っただけだよ」 「東雲さんも?」 「あぁ」  彼女は夏色に染まる空を見上げながら、そう小さく答える。  まるで空ではなく、もっと別の、もっと遠くにある何かを見つめているように僕には見えた。  それが一体何なのか、彼女の華やかな横顔をじっと見つめながら考える。  だけど、それが無駄なことであるとすぐに気づいて、僕は考えることをやめた。  仮に彼女が僕の考えを理解できたとしても、その逆は絶対にあり得ない。  もし、僕のような人間に彼女の考えが理解できたのなら、僕と彼女は対等の存在であるということになってしまう。  それはきっと、彼女以外の全てが許さないだろう。  彼女、東雲すみかは僕たちのような有象無象とは異なる唯一無二の存在。  比べることすら許されない人類史に刻まれる歴史そのもの。  仮に東雲すみかの思惑を理解することが出来る者がいるとすれば、それはこの世でただ一人、他ならぬ彼女自身だ。  そんなことを考える僕の傍らで、彼女は指に挟んだ煙草を燻ぶらせながら微かな笑い声を漏らした。 「ははっ。そりゃあ、呼び出されるわけだな」 「えぇ。先生にはほんと、申し訳ないことをしました」 「思ってもないことを言うもんじゃないぞ、少年。教師の前ではそれが通用しても、私の前じゃ無駄だ。嘘を()くなら、もっと堂々と胸を張って言わないとな」 「……やっぱり、流石ですね。さっきの取引の内容、悩み相談じゃなくて上手な嘘の()き方を教えてもらうに変更できたりしませんか?」 「少年、私は女優であって詐欺師ではないんだぞ? 人を魅了する術を熟知していても、人を欺くことは大して上手くはないんだ」  そう言って少し恥ずかしむように話す彼女の姿が、僕の瞳には嘘みたいに幼く映った。  まるで同年代か少し年下の少女と話しているみたいで、一体どれが本当の彼女なのか分からなくなる。  そもそも、彼女は僕の前で一瞬でも『素の自分』というものを曝け出しただろうか。  実は今も、僕と話す役に興じているだけなんじゃないだろうか。  自分でも気づかぬ間に、僕は彼女の物語に登場する『少年』として、物語の進行役を担っていたんじゃないだろうか。  そんな行き過ぎた被害妄想に憑りつかれるほど、僕は未だに〈東雲すみか〉という存在を上手く認識出来ないでいた。   ほんの少し手を伸ばせば、届く距離にいる彼女。  一瞬でもこの指先で触れられさえすれば、彼女の存在を明確に認識することが出来る。  この白昼夢から抜け出すことが出来る。  でも、僕にはそれが出来ない。  この指で彼女に触れ、その存在を確かめることが僕には出来ないのだ。  もし、彼女に伸ばした指先が彼女の肌に触れることなく身体を通り抜けてしまったら。今、僕の隣で僕の話に耳を傾けている彼女は、「話を聞いて欲しい」と願う僕の深層心理が創り出した幻影であるということになってしまう。  僕は、それほどまでに自分が追い詰められているという事実を突きつけられることが、たまらなく恐ろしい。  だから僕は、彼女の身体に触れることが出来ない。  そんなことを考えている僕の隣で、彼女は相変わらずむせ返るような苦い煙を吐き続け、再び僕に訊ねた。 「それで? 何かいい解答を書くことは出来たのか?」 「…………いえ、それが……その……」 「書けなかったんだな」 「…………」  その問いかけに無言で返す僕を見て、彼女は呆れるわけでもなく、ましてや年長者らしい説教をするでもなく、ただじっと僕の方を見つめて問いを続けた。 「少年には、将来の夢っていうのが無いのか?」 「……いえ、夢はあります。……あると、思います」 「それじゃあ何故、それを書いて提出しないんだ。……ひょっとして、自分の夢や目標を他人に知られることが恥ずかしいのか?」 「そんなんじゃないですよ。ただ——」  そう言って僕は彼女の視線から逃れるようにそっと目を背け、言葉の続きを口にする。 「……希望を持って生きるということに、抵抗があるだけです」 「抵抗か……、面白い表現だな」  彼女は独り言のようにそう呟くと、指の間から立ち上る煙を見送るように空を仰いだ。  僕はそんな彼女の自然な仕草を横目にしながら、アスファルトを染める真っ黒な影に向かってゆっくりと言葉を発する。 「……将来について考えた時、思い通りにいかなかったらどうしようと不安になる。夢について考えた時、それが叶わなかったらどうしようと不安になる。誰かを強く意識した時、裏切られたらどうしようと不安になる。  だから今日も、夢も希望も期待もなるべく抱かないようにして、灰色の世界を彷徨っている。  ……僕は、何かを失うということが恐くて怖くて仕方ないんです」  これまでずっとひた隠しにして、誰にも打ち明けずに生きてきた。  どうせ誰も本当の意味で僕の悩みを理解できない。しようとしない。  最初から解決なんて諦めていて、本当にどうしようもなくなったらその時は命を絶てばいい。そう考えていた。  だけどいざそれを話し始めると、まるで際限なく湧き出る泉のように助けを乞うみっともない感情が溢れ出し、自分ではどうすることも出来なかった。  やがて視界は歪み、声は震え、夏の暑さとは違う熱に胸を焼かれながら、僕はただじっと、自分の影だけを見つめて言葉を吐き続ける。 「『お前みたいに具体的な夢や目標が思い浮かばいというやつは大勢いる。そんなに深く考えなくてもいい。だからとりあえず、何か書いてくれ』……担任から、そうアドバイスを貰いました。でも、そんなこと言われなくても分かっているんです。分かった上で、何も書くことが出来ないんです」 「…………」 「——仮に、その場で適当な嘘を書いてやり過ごしたとします。担任のアドバイス通り、〝何か〟を書いたとします。すると、どうでしょう……。担任としては、確かに面倒な仕事を一つ片づけられて満足と思うかもしれませんが、根本となる問題は何一つ解決していません。それどころか、嘘の記述をしたことで僕はこんな風にも考えてしまうんです。 『その場しのぎで書いた〝何か〟すら実現できなかったとしたら——』と……」  そこまで話し終えて、隣から漂う白い煙と仄かに香る爽やかなベルガモットの匂いから今一度彼女の存在を強く意識すると、僕は辺りに響く蝉時雨に紛れて小さく息を吐き出した。 「誰だって一度や二度、死にたくなるほどの絶望を味わったことがあるでしょう。それでも死なずに今を生きているのは、希望を決して捨てなかったからだ。自分はいつか救われると、信じて疑わなかったからだ。  だけど僕は、そんな希望を抱くことにすら恐怖している。希望に救われる未来より、希望に裏切られる未来ばかりを想像してしまう。  ……きっと、こんな後ろ向きなことばかり考えて生きている人間は、そもそも生きることに向いてないんだと思います。いっそのこと、将来なんて捨てて死んでしまった方が楽かもしれません」  そう言って僕は自嘲気味に笑い、最後に一言付け加える。 「……つまり何が言いたいかというと、僕はどうしようもなく弱い人間なんです」  僕がすべてを話し終えるまで、彼女は一切口を挟んでこなかった。  ただ静かに耳を傾け、僕が毒を吐き切るのを横で待っていてくれた。  僕はそんな彼女の優しさに甘えるように、彼女に問う。 「東雲さん」 「なんだ」 「僕は、どうするべきでしょうか。……これから、どう生きていけばいいんでしょうか」  自分で「死んだ方が楽」と言っておきながら、彼女に訊ねたのはこれからを生きていく方法。その矛盾が、今の僕の弱さを何よりも明確に表していた。  僕は、もはや汗なのか涙なのかすら分からない不快な雫が頬を伝っていく中、ただひたすらに彼女からの返答を待った。  そして雫が三度影に呑み込まれるのを見送ったところで、彼女は一際大きな溜め息を吐き出すと、後方の海へと身体を向けて僕に言った。 「——なぁ、少年」 「……なんですか?」 「キミは、自分の弱さを克服したいと思うか?」 「克服……ですか」 「その不自由な弱さを捨てて、もっと強い人間になりたいと思うか?」  音もなくやって来る潮風に長い髪を靡かせながら、彼女は僕に問う。  それまで周りを漂っていた煙草の煙が晴れ、彼女の玲瓏な瞳がより鮮明に見えた気がした。  僕はそんな彼女の瞳を見つめながら、答えを返す。 「……そうですね。出来る事なら、もっと人間として強くなりたいと思います。僕もみんなみたいに、毎日を笑って過ごせるような……希望を信じられる人間になりたいと、そう思います」 「……そうか」  彼女は僕の答えを聞いて少し悲しそうにそう呟くと、指の間に挟んだ煙草を深く吸い、溜息を吐くように苦い煙を吐き出した。  それから彼女は遠くに浮かぶ夏雲を見つめながら、諭すように僕に向かって話を始めた。 「弱さとは証明なんだよ。自分が、人の助けなくして生きられないという証明」 「……どういう、ことですか?」 「少年は先程、『強い人間になりたい』と言ったな。確かにキミから見れば、自分と正反対の人間……つまり、不安や恐怖をものともしない人間は強く、そして美しく見えるだろう。憧れるのも無理はない」 「…………」 「だがな。強さとは時として〝枷〟にも成り得るものなんだよ」 「枷?」 「あぁ……」  僕には彼女の考えを読むことができない。  彼女が一体何を思い、何を伝えたくて僕にそんな話をするのか、どれだけ考えたところでその輪郭を把握することは難しい。  それでも僕は、遠い夏の情景を瞳に映す彼女の横顔から、確かに質量のある強い感情を受け取った。それが何という名の感情なのか定かではないけれど、僕が軽々しく理解していいものではないことは解る。  夏の暑さも、蝉の声も、潮の香りも今は要らない。  今はただ、彼女の声とこの匂いだけで充分だ。  僕は視界を塞ぐ余計なものを全て取り払い、煙を纏う彼女の横顔だけをじっと見つめて言葉の続きに耳を傾ける。 「……人は強くなればなるほど、いざという時に誰かを頼ることが出来なくなる。周りが信じる強い自分であろうとするあまり、奥底に隠していた自分の弱さすら曝け出せなくなるからだ。そして、周りはそいつが抱える弱さに気が付くことはなく、救いの言葉もかけられないまま、知らず知らずのうちに自分の中の大切な何かを壊していくことになるんだ。  そうして、気が付いた時にはもう全てが狂った後で手の施しようがなくなっている。  他人が思う人の強さってのは時として人を縛る枷となり、人を殺す凶器にもなるんだ。  ——だから、少年」  そう言って、彼女は僕に目を向ける。  今まで見たどんな宝石よりも美しく、形容することのできない強さを秘めた瞳で僕を見る。  そして、真っ赤なルージュが引かれたその唇で、彼女は煙を吐くかのように僕に言った。 「〝弱くあれ〟」 「………弱く……」 「そうだ。——何者よりも〝弱くあれ〟だ」  それは僕が望んでいた言葉とはまるで対照的な意味を持つ言葉だった。  僕の望みは、失敗を恐れて何も行動できない今の自分から、彼女のように人に希望を抱かせることのできる強く高潔な人間になること。  それなのに、彼女から送られた言葉は『弱いままの自分であれ』という酷く残酷なもの。普通だったら期待を裏切られたことに落胆し、怒りすら湧いてきそうな言葉だ。  だけど、彼女の話を聞いてから、僕は怖いほどすんなりとその言葉を受け入れることが出来た。  彼女は呆けた顔で佇む僕に続けて言葉を投げかける。 「『弱い』ということは、誰よりも恐怖を知っているということだ。例えばそれは将来に対する恐怖、裏切られることに対する恐怖、自分という存在に対する恐怖。……少年は、それだけの恐怖を経験して今この場に立っている。それは誇るべきことだ。なんせ、自分を強者だと錯覚しているものは、その恐怖を受け入れることすら出来ていないということなのだから」 「……つまり、貴方は僕にどうしろというんですか。ずっと、この不安や恐怖と向き合い続けろとでもいうんですか? だとしたら、僕には出来ません。……今でも、少し先のことを考えるだけで震えが止まらなくなるんです。  どうして僕だけが、こんなにも世界に怯えて過ごさなくてはいけないのか。  どうして僕だけが、怯える必要のないことにまで怯えて生きなければいけないのか。  どうして僕だけが、こんな不自由を抱えて生まれてきたのか——。  ……こんなのって、あんまりじゃないですか」  理解されないとは分かっていても、誰かに理解してほしいと思う気持ちは決して消えない。  それはまるで燻ぶる煙草の熱みたいにいつまでもそこに在り続ける。  声を発するたびに肺は焼け、呼吸が苦しくなる。  やがてその熱は痛みとなり、僕の心臓を強く締め付けた。 「……東雲さん」 「なんだ、少年」 「……一つだけ、訊いてもいいですか」 「あぁ」  僕は自分の心が火傷しそうになっていることを理解しながら、彼女に問う。 「東雲さんは、自分を〝強い人間〟だと思いますか。……それとも——」  そこから先は、言葉が続かなかった。  この話を切り出すよりも前に訊いておかなくてはいけないことだったはずなのに、いざそれを確認しようとすると思考が凍ったように言葉が出てこなかった。  多分、それは今、自分が何に怯えているのかはっきりしているからなのだと思う。  他でもない彼女自身の口からその言葉を聞くことが怖くて、無意識に言葉を詰まらせてしまったんだ。  だけど、そんな中途半端な質問でも、彼女には僕が訊ねようとしていたことの全てが手に取るように分かってしまうんだろう。  そして、僕が今、どんな回答を望んでいるのかも——。 「……はぁ」  彼女はそう小さく息を吐き出すと、すっかり短くなった煙草を携帯灰皿にしまい込み、腰かけていたガードパイプからそっと立ち上がって僕に言った。 「——少年。その問いに対する答えは、今は保留にしてもいいか?」 「えっ?」  困惑が小さな声になって口から零れる。 「どうしてですか?」 「……何というか正直、その問いには上手く答えられる自信が無い。それと——」  そう言って、彼女は少し困ったような顔をして左腕にはめた腕時計の文字盤を僕へと向けた。 「そろそろ時間だ。あまりサボっていると、ただでさえ腹の出ている監督が益々腹を突き出すことになる。……だから、また今度だ」  ——また今度。  それが一体いつなのか、彼女は教えてくれなかった。それも当然だろう。  僕たちがこうして二人きりで会話をすることは、恐らく今後一生無いのだから。  田舎町に暮らす平凡な学生と人類史に名を遺す偉大なる大女優。  そんな二人が、またどこかで話をする機会なんて、きっと永遠にやって来ない。  そんな当たり前の事実、彼女だって理解しているはずだ。  それにもかかわらず「また今度」なんて言葉を口にしたのは、一体何故なんだろう。  僕は未だすべてを理解しきれずにいながらも、そんな彼女の遠回しな答えを出来るだけゆっくり噛み砕き、そして呑み込んだ。 「……そうですね。叱られてる東雲さんは、あまり見たくないです」 「はっはっはっ。私も新しく手に入れたファンに、そんなみっともない姿は見られたくないな」 「ファンになっただなんて、言った覚えは無いですけどね」  途切れた会話の裂け目を上手く縫うように軽快な笑みを浮かべる彼女を見て、僕は少し安堵しつつも苦笑気味にそう告げる。  実際、僕が彼女のファンであるかどうかと訊かれれば、それは違うと思う。  確かに、僕の稚拙な表現力じゃ上手く言い表せないほど彼女は……東雲すみかは、気高く崇高な人物だ。それに間違いはない。  心の底から魅力的だと思っているし、その生き方や在り方に尊敬すらしている。  だけど、それはただの幻影……僕が勝手にイメージしている偶像であり、恐らく本当の彼女ではない。  そもそも、彼女のこれまでの活躍を曖昧にしか理解していないようなこの僕が、本当の意味で彼女を愛し、応援している人たちの仲間入りができるわけがない。していいはずがない。  ——僕はあくまで、彼女にとっての他人だ。  そんな理屈を並べては見たものの、彼女の満足そうな表情を目にすると羞恥心にも似た感情がどこからともなく込み上げてくるのだから、心というのは本当によく分からないものだ。 「それじゃあ、私は行くよ」  気がつけば、彼女の周りを渦巻いていた煙はとうに消えていた。  それまで意識の外にあった夏の暑さや蝉の声、潮の香りが思い出したかのように活動を始め、現実が僕のワイシャツを強く引っ張る。 「……話、聞いていただいてありがとうございました」 「あぁ」 「ほんの少しですが、気が楽になりました」 「それは良かった。私はしっかり役目を果たせたというわけだ」 「えぇ、……本当に——」 「……少年?」  ——本当に、僕は今のままでいいのだろうか……。  この先、数えきれないほどの希望と裏切りに怯えながら、僕はまともに生きていくことができるのだろうか。  いつか、彼女の言った言葉の意味を理解できる日がやって来るのだろうか。  不安はある。恐怖もある。希望を信じる心だけが、未だ無い。  それでも彼女は「弱くあれ」と言った。  その〝弱さ〟がいつか誇りになると、彼女は言ってくれた。  ならばせめて、その言葉だけでも信じよう。  世界で唯一、僕の話に耳を傾けてくれた彼女がそう言ってくれたのだから。 「……いえ、本当にありがとうございました。進路、もう少しよく考えてみます」 「あぁ、それがいい。……少年は、私みたいにはならないでくれ」 「……それは、どういう——」  そう言って、ふと見上げた彼女の表情はこれまでに見たどの表情とも異なっていて、なんだかまるで〝普通〟の人間のように見えた。 「——良い青春を」  彼女は最後にそれだけを言い残して、港へと続く石段を静かに下って行く。  僕はそんな彼女の姿が視界から消えてなくなるまで、その凛々しい後ろ姿を目で追った。  東雲すみか。  26という若さであらゆる役を演じ、あらゆる人生を体験してきた生きる偉業、闊歩(かっぽ)する美と称される現代の大女優。  その名は未来永劫人類史に残り続け、いつか偉人の一人として数えられる日が来るかもしれない。  そんな彼女との対話は、一時間ほどにも感じられたし、十分程度しか経っていないようにも感じた。  彼女の前では、時間の流れすら歪んでしまうのだろうか。  そんなSFチックなことを考えながら、今まで彼女が佇んでいた場所にふと目を向けると、つい先ほどまでそこにあったはずの影は跡形も無く消えていた。  代わりに、目に染みるような苦い苦い煙草の匂いだけが、まるで彼女の姿を象るかのように、じっとその場に佇んでいた。  ***  リョウとキョウスケとファミレスで別れた後、僕はそのまま自宅に帰り、例の報道についてインターネットのニュース記事を調べた。  彼女の死から約一週間が経過しようとしているのに、トップニュースの欄には未だにその情報が大きく掲載されていた。  僕はわざわざ検索エンジンを使用する手間が省けたことに胸を撫で下ろしながら、彼女の名前が記載されたリンクをタップして記事を開く。 『八月×日 午後。東京都○×区にある自宅マンションで、女優の東雲すみかさん(28)が首を吊った状態で亡くなっているのを事務所関係者が発見した。未だ遺書のようなものは見つかっていないものの、当時の状況から警察庁は自殺である可能性が高いとの見方をしている。彼女の訃報を聞いた関係者たちは揃って涙を流し、惜しみの声を上げた。また、プライベートでも親交の深かった映画監督の黒澄氏は「惜しい人を失くした。彼女は人類史に名が刻まれるほどの偉大なる役者であり、どこまでも強く美しい女性だった」と悲痛の思いを述べている』  そこから先は、彼女の残した様々な功績や偉業、そして、彼女の人柄についての説明が事細かに記載されていた。  僕はそれを最後まで読むことなく、スマホの画面を閉じた。  ——ふと、あの日の記憶が蘇る。  僕が彼女に「自分が〝強い人間〟だと思うか」と問うた時、何故彼女が答えを渋ったのか。「また今度」などと叶えられもしない誓いを口にしたのか。今になってはっきりと理解した。  ——そう。あれはきっと、彼女から僕に向けたSOSだったのだ。  彼女が人に曝け出した最初で最後の〝弱さ〟だったのだ。  今になってようやく理解した。  彼女がどれだけのプレッシャーを抱えて生きていたのかということを。  失敗など許されず、少しでも期待を裏切るようなことをしてはいけない。  常に周りが思う完璧な〈東雲すみか〉を演じ続けなければならない。  周りが憧れる〝強い〟人間であることを強いられ続ける。  一体どれほどのプレッシャーだったのか。表面上では理解できても、彼女がいたその奥までは知り得ない。  ただ、身も心も真っ赤な炎で炙られ続けるような地獄にいたことは確かだろう。  そんな地獄の中で、僕というどうしようもなく〝弱い〟人間を目にした時、彼女は一体何を思っただろう。  今の僕なら、あの日の彼女の気持ちが痛いほどよく理解できる。  けれど、当時の僕にはその痛みを理解してあげることが出来なかった。  勝手に自分とは住む世界の異なる存在だと決めつけて、彼女も〝弱い〟人間の一人であることなど、考えもしなかったのだ。 「……あ、ああ……」  ——どうして、勝手に死ぬんですか。 「……ああ、あああ……」  ——どうして、気づいてやれなかった。 「……ああああ、ああああ……!」  ——どうして、吐き出してくれなかったんですか。 「ああ、あああ、あああああ、ああああああああっ……!!!」  ——どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして……!!  ——助けて、やれなかったんだ。  その感情が悲しみなのか、苦しみなのか、怒りなのかも分からないまま、僕は子供のように泣き叫んだ。  泣いたところで時間は戻らないし、彼女が生き返るわけでもない。  仮に時間が戻ったからと言って、彼女の大きすぎる悩みをどうにかしてあげることも出来ない。  あの日、僕たちが出逢った時点で……いや、出逢う以前からこうなることは確定してしまっていたんだと思う。 『——何者よりも〝弱くあれ〟』  あの日、彼女が僕に残したその言葉の意味を、高校二年生になった僕は未だに素直に受け取れずにいる。  弱さを隠し、強い自分を演じ続けた彼女が死んでなお、僕は自分の〝弱さ〟を受け入れることが出来ていない。  彼女はあんなことを言っていたけれど、普通に生活を送る上で〝弱い〟ということは不自由以外の何物でもない。  この世界はいつだって、強いものが弱いものを支配できるように創られている。  弱さとは悪であり罪であり、世界から排除すべき粗悪品である。  今後、いくら時代が積み重なろうと、このルールが完全に書き換えられることは無いだろう。  どの時代、どの地域、どの種族にも弱者は存在し、そのたびに争いや悩みが生まれる。  誰が見ても、決して良いものではないだろう。  誰だって、自分の〝弱さ〟には気付きたくはないし、認めたくなんてない。  ましてや、それを受け入れ、誇りに思って生きるなんて到底出来そうにもない。  それでも、彼女は言うのだろう。 「誇れ」と。 「弱くあれ」と。  僕はいつか、彼女の言葉(ねがい)を受け取ることが出来るだろうか。  弱い自分を、好きになれるだろうか。  夜の帳が下りた暗い部屋の中でひとしきり泣き叫んだあと、僕は真っ赤な瞳をそっと拭い、部屋の窓を微かに開けた。  空が藍色に染まっても、外では八月の熱を孕んだ風が吹いている。  あの日と違う街、違う時間。  いくら隣を見ても、彼女の幻影は現れない。  彼女が死んでも変わらず世界は周り続け、夏もまた、当分終わる気配はない。  僕はそんな遠い遠い夏をじっと見つめる。  届かないと知っていても、聴こえないと知っていても、言わなくてはいけないと思った。  僕は、あの日の彼女に向かって小さく呟く。 「——さようなら、弱き人」  どこかから、あの日と同じ苦い煙草の薫りがやってきたような、そんな気がした。
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