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私の手の甲に、ジッパーがついていた。ひっぱると開く。中を覗き込むと、真っ暗だった。
『見ないで』
と声が聞こえて、驚いた私はジッパーを戻した。この声は誰にも聞こえていないらしく、私は一人でびっくりしている変な人になってしまった。
ほかの人の体にもジッパーはあった。そっとひっぱった。
「あなたのためを思って言っているのよ」
『本当は優越感や支配欲で言っているの』
これは親戚のおばさんの声。
「私たちは親友だから何でも相談して」
『本当はあなたなんて嫌い』
これはクラスメイトの声。
ジッパーを開けて出てくる声が本音のようだった。私は、私自身を知られたくないことになる。
いろいろな人にジッパーがついていた。ひっぱる気になれなかった。本音を聞くのがつらかったし、隠しておきたい思いを引きずり出すのは乱暴ではないかと思ったから。
それでもコミュニケーションに行き詰まると、ついジッパーを開けてしまうのだった。そうすると、話の取っ掛かりが見えてきたりした。
親戚に、ひどく無口な子がいて、その子の相手をしてくれと頼まれた。人の本音を聞ける私は、様々な人とそれなりにコミュニケーションを取れることを評価され、無口な子の相手を押しつけられたのだ。
無口な子は無口だった。ジッパーは後頭部にある。まず他愛のない会話から始めようと話しかけてみる。
「好きな番組は何?」
「……」
無口な子は無口で、何も返してくれない。
「趣味はある?」
「……」
無口な子は無口で、何も答えてくれない。
辛抱たまらず後頭部のジッパーを、そっと、ひっぱってみた。何か、この子の心を解きほぐす手がかりがつかめれば、と思ってのことだった。
ゆっくり開ける。
『aの二乗かけるbの二乗はcの二乗』
三平方の定理……だろうか?
『こっんなとーき、こっんなとーき、コンソメがあればぁー』
これはコンソメのコマーシャルソングだ。
『狸とアライグマは似ているけれどアライグマは前足を上に持ち上げられるのに対して狸は前足が上がらない。ミズクラゲ。ふわふわ』
思考が次から次へと変わって、流れていく。
『さん、にい、いち、エビバデレッツゴー、ラブリーラブリーキュートなうさぎ』
これはアニメソング。
『お風呂を洗わなくちゃ』
これは思い出した用事かな。
『はっかったっの』
塩!
私は圧倒されていた。無口な子は無口だけど、思考が賑やかだったのだ。
私はそっとジッパーを戻した。頭の中が忙しくクルクル回っているこの子の邪魔をしてはいけない、と思った。
無理に話しかけては、無口な子がキャパシティオーバーしてしまうんじゃないかと心配にもなった。
自分のジッパーを開けてみる。
『人の心を覗くなんて、私はなんてことを』
ちくりと胸が痛む。
『本音で話すのが怖いから、人の本音を覗いてしまうんだ』
ああ、その通りかもしれない。
もうやめよう。人のジッパーを下ろすのは。
気がつけば、ラブリーラブリーキュートなうさぎ、と鼻歌を奏でていた。
無口な子が私を見ている。
「……かわいい歌だよね、これ」
「……」
こくり、と頷かれた。
ジッパーを下ろすことをやめた私は、すっかり不器用になった。人の気持ちを汲むのに四苦八苦して、必要以上に警戒して、傷ついて。
けれど。
「この狸のぬいぐるみ、かわいい!」
「……レッサーパンダ」
「えっ」
……なんだか、ジッパーを下ろさないほうが、楽しい気がした。
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