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水の勢いは止まる事を知らず、コンクリート造りの床に降り注いだ。自然と体が浮き、手錠の鎖はもうこれでもかというくらいに張っている。これ以上は伸びない。終わりが近い。
水は既に口のすぐ下まで来ていた。声を出せるのは最後かもしれない。
「……おっさん……」
呟いた、その時だった。
「ユキーっ!」
「……え……?」
腹の底から発せられたような絶叫は、今まで騒がしかった外野の声じゃない。
「ユキっ! ユキーっ!」
聞き間違えるわけがない。ずっと思い浮かべていた人の声だ。あと数時間は来ない筈なのに。
「ちょっと! 何で入ってきてるのっ! あんたわかってんの⁉」
叫び続ける開堂を、聞き覚えのない女性の声が窘める。
「でもユキが中にいるんだ! ユキっ!」
「おい下がれ!」
「うるさいっ! ユキ! 無事か⁉ ユキッ!」
つんざくような叫びに、また熱いものがこみ上げてきた。
何で。来ないで。お願い、終わりにさせて。夢のような時間をありがとう。どうか幸せに。
返したいのに、もう上を向いても口が水面から出ない。
「ユキっ、生きるんだ! ユキっ!」
鼻からも水が入って苦しい。すぐに涙すら流せなくなった。
「準備できたぞ」
「どけっ! 俺が行くっ!」
薄れゆく意識の中で最期に感じたのは。
――おっさん……。
確かな幸せだった。
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