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一人暮らしだと言うが、ここは植山の実家なのだろうか?
しかし、それにしては殺風景で、家族の生活の痕跡のようなものがほとんど見受けられないのが奇妙だった。
テーブルの傍にある仏間もがらんどうで、なんだか引っ越して間のない部屋のようだった。
そんな思索を巡らせている内に、部屋の掛け時計はじきに六時を指そうとしていた。
階段を下りてくる植山の足音を聴きつけ、かなめも再び居間を出て靴を履きなおした。
***
家から徒歩十五分ほどの小さなビストロで食事を済ませ、七時前に店を出た。
かなめは自分の代金を支払おうとしたが、植山はそれをきっぱりと制し、二人分の代金を支払った。
「すみません、ご馳走になってしまって」
「僕が勝手に連れ出したんだから、これくらい当然です。だって、仕事は明日からじゃないですか」
横断歩道を渡り、車通りのない農道まで辿り着いたところで、植山は不意に足を止め、体ごとかなめの方を振り返った。
突然のことに戸惑うかなめの様子を見て、彼はどことなく情けなさそうに笑った。
「そんな風に緊張したり、かしこまったりしなくていいですよ。…って言っても、こんな環境じゃ不安になるのも無理ないか」
「え、そんなつもりは…。そんなに固かったでしょうか」
子供をあやすような言葉を掛けられ、恥ずかしさで顔が熱くなる。
食事の時も自分では普通に振舞っていたつもりだが、どこかぎこちなかったのだろうか。
植山はかなめの質問に答えないまま、先ほどよりゆっくりとした歩調で歩き出した。
男性にしては長めの髪が、時折吹く初夏の風にそよいでいた。
「村井さんが僕の依頼を受けてくれて本当にありがたいし、率直に言って嬉しいです。でも実を言うと、最初に会った時は断られるだろうと思ってました。僕としては、面談までしてくれるんだし、男子学生のバイトの一人くらいはいるだろうって頭になってたから。まさか、出迎えてくれた女の子がそのまま家に来るなんて、思ってもみなかった」
「……」
これは会社の対応を批判されているのだろうか。
確かめたかったが、少し先に立って夜道を歩く植山の表情を窺うことは難しく、かなめはただ彼の言葉を待つしかなかった。
植山の言うとおり、あの時かなめは依頼を断るつもりだった。
十分やそこらの面談の印象で相手を信用するのはあまりに軽率だと思ったし、万が一植山が悪人で、現地に着いてみたら一部屋しかないアパート暮らしだったなんてことになれば、取り返しがつかないと思ったからだ。
それなのにああも簡単に引き受けてしまったのは、セプテンバーの可愛さに心を揺さぶられたことだけが理由ではない。
普段の生活を完全に離れた見知らぬ場所で過ごす時間に、投げやりで非現実的な逃避を求めていたのだ。
「あなたは本当に優しい人なんだろうと思います。セプテンバーがあんなに懐くんだから。でも、いくら優しくて人の頼みを無下にできないあなたでも、自分が納得するだけの理由がなけりゃ、こんなきな臭い仕事受けたりしないでしょう。だって、村井さんは絶対馬鹿なんかじゃないんだから」
こちらに背を向けているのに、植山の声は不思議なくらい明瞭に聞こえた。
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