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車窓から見える風景の流れが緩やかになったことに気付き、鞄の持ち手を無意識に握り締める。
左手首に巻いたアンティークの腕時計は、午後五時前を示していた。
海沿いの閑散とした路線を走るその電車には今、村井かなめ以外に乗客はいない。
座席を五列ほど挟んだ先にある車両先頭の運転席に、モスグリーンの制帽を被った運転手の頭が辛うじて見えるばかりだ。
その傍にあるはずの運賃箱の所在を目で探っている内に、駅への到着を告げる自動音声のアナウンスが流れ出し、電車はいよいよスピードを落としていった。
見れば、意外にも小綺麗な高架式のホームにはベンチが二脚置かれ、そこに座っていた高校生くらいの少年が待ち侘びたように立ち上がるところだった。
それに倣うようにかなめも席を立ち、用意していた小銭を数え直して、折れ曲がった整理券と一緒に透明の運賃箱に入れた。
「ご乗車ありがとうございました」
運転手の小慣れたセリフに送り出され、かなめはその無人駅のホームへ足を踏み出した。
待合の掲示板には、日に焼けた列車時刻表や地域イベントの宣伝ポスターなどがびっしりと貼られていた。
線路の下を走る車道の交通量は少ないものの、その向こうには広いロータリーを備えたモダンな佇まいの病院があり、そこを出入りする人の姿や送迎に来る車の往来のおかげで、それほど寂しい感じはしなかった。
「村井さん」
階段を降りる途中の踊り場に着いたところで、地上から名前を呼ばれた。
駅の駐車場に白い車が一台だけ停まっていて、そのすぐ傍に、見覚えのある男性がこちらを向いて立っていた。
不意を突かれたかなめはやや大げさに会釈を返し、残りの階段を急ぎ足で降りて行った。
「すみませんね。こんな田舎まで来てもらって」
駅舎を出たかなめがわずかに乱れた呼吸を整えている間に、その男は朗らかな口調でそう言い、彼女の手から重たい旅行鞄の持ち手をさりげなく奪い取った。
「電車の数少ないし、乗り換えの接続も悪いでしょ。随分待ちませんでした?」
「いえ、ちょうどスムーズに乗り換えできました。こちらの都合で時間を合わせていただいたので…」
「気にしないで。どうぞ、乗ってください」
旅行鞄を車の後部座席に載せながら男が言い、かなめは彼が示した助手席のドアに手を掛けた。
車内に漂う芳香剤の匂いを嗅いだ途端、道中で克服したはずの心細い気持ちが、ふと蘇ってくる。
「ちょっと買い物に寄ってもいいですか」
「はい」
運転席に乗り込んだ男はもうシートベルトを締めていた。
かなめは足元のドアポケットを蹴らないように注意しながら、慣れない感触のシートに身を預けた。ほぼ同時に、唸るような音を立てエンジンがかかる。
「ホームセンターだけはやたらと多いんですよ、この辺り」
特に意味もなさそうに言いながら男はサイドブレーキを下ろし、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
「…お願いします」
窓の外に広がる長閑な遅い午後の田舎町の風景とは裏腹に、かなめは肩をすぼめて恐縮しっぱなしだった。
一瞬、男が何か言いたそうにちらりと目線をくれたのが分かったが、結局彼は何も言わずに車を発進させた。
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