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それでも期間にして三週間程度の研修を終え、社長から正式採用を告げられた時は素直に嬉しかったし、安心もした。 自分が一端の人間になるための、そのスタート地点に立つことをどうにか許されたのだと思った。 この機会を逃せば、世の中とのつながりを永久に失ってしまうような気がしたから――本当はそんなことはあり得ないと、頭では分かっていたのだけれど。 それからのかなめは、自分でも認めざるを得ないほど勤勉に働いた。 自分にとって楽しくて難しくもないその仕事に打ち込むことで、労働者としての自信と充足感を得たかったのだ。 少しでも立ち止まると、瞬く間に元いた暗闇の中に引き戻されてしまうような、切迫した焦燥感があった。 そんなかなめの働きぶりを認めてか、次第に社長も、長時間勤務の案件や多頭飼育の案件など、多少きつくても実入りのある仕事を割り振ってくれるようになった。 もしかすると、かなめの経済状況の厳しさを察して気を遣ってくれていたのかもしれない。 そんな調子でまた二ケ月ほど経ったある日、月報の提出のため事務所を訪れた際に、不意に社長に呼び止められた。 「ごめんね。新規に入った依頼があるんだけど、村井さんにどうかなと思って」 妙に改まった社長の態度に、かなめは内心身構えた。 そもそも、普段から新規の依頼があった場合は社員が担当を決め本人にメール連絡が来るようになっているため、わざわざ事務所で話す必要はないはずなのだが。 社長によると、依頼者は独身の男性で、ひとまず三ケ月の契約でオスの中型犬一頭の世話を頼みたいのだという。 ただし、依頼者宅は遠方で交通の便も悪く通勤しづらいという難点がある。車でも市内から二時間近くかかる距離だ。 「先方はシッターの希望次第で住み込みでも良いとおっしゃってるの。だけど相手は男性だからね…。その、心配はあると思うし、もし嫌なら無理に引き受けなくてもいいですよ」 「はあ…」 他のシッターの顔ぶれを思い浮かべると、六名のうち五名は既婚者で三十代以上の主婦。あとの一人は二十五歳のフリーターの女の子だが、彼女に仲の良い彼氏がいることは社内の皆が知っている。 住み込みの案件は過去に対応事例がないわけではないそうだが、言い方は悪いが辺鄙な田舎に住む独身男性の所へ、少なくとも相手のいる女性を派遣するのは社会通念上も難しいだろう。強いて適任と言えるのが自分しかいないのだと、かなめもすぐに気付いた。 「とりあえず、面談に出てみます」 社長としては顧客を逃したくはないだろうから、会いもせずに断る勇気はかなめにはなかった。 あまり気は進まないが、時間帯によっては自宅から電車で通えるかもしれない。その分の交通費くらいは出るはずだ。
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