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そのいち:肥大化するお菓子
一日に何度リシェの事を考えているだろう。
彼と別の世界で会い、彼の近くに居たいが為に無理矢理部屋に押し掛け同居する事数ヶ月。そろそろ進展もあっていいんじゃないかと思うが、なかなか進まない。
元の世界とは違い、こんなに近過ぎる距離に居るというのに。
出会った時と比べれば、確実に手の届く場所に居るのだ。それなのに全く進展しない。しないどころか、恋人になるステップすら踏んでいない状況だった。
どうしたらリシェは自分に落ちてくれるだろうか。ラスは自問する日々を過ごしていた。
「先輩」
「ん」
改めまして、と言わんばかりのラスはリシェに体を向けてテーブル越しに正座していた。
相手はほとんど無表情の美少年。彼は前の世界ではラスの先輩剣士だったが、こちらではごく普通の男子高校生だ。ラスの方が年上だが、リシェに対する呼び方が染み付いてしまったのでひたすら先輩と呼んでいる。
最初はそれに違和感を覚えて抵抗を感じていたリシェだが、段々面倒になってきたらしくラスの呼び方にはスルーしていた。
リシェは長い睫毛を揺らしながら子供向けの混ぜて作るお菓子に夢中になっている。これも何故か同級生に貰ったものらしい。
「俺とのお付き合いもこれで三回目になりました」
「は?」
「そんな冷たい返事をしないで下さいよ…」
「三回目って何だよ」
「だって、三回目ですから」
付属していたカップの中に水を少し入れ、魔法の粉と書かれた袋を一緒に入れる。ラスの話を聞きながらリシェはまるで小さな子供のようにお菓子を作り上げるのに夢中になっていた。
ラスは不思議そうに「楽しいですか?」と問う。
「混ぜると伸びて色が変わるらしいぞ」
「そりゃ知ってるけど…買った事が無かったんですか?」
「うん。あまりこういうものはな…お菓子なんて手作りのしか食べさせて貰えなかったし」
お坊ちゃん育ちのリシェは、どうやら母親のお手製しか与えられなかったようだ。ラスはそうなんですねと納得する。
リシェはひたすら粉を含ませた水をかき回していた。同時に急激に膨れ上がる生地。
「…っわぁああ。面白い」
「何だかカップケーキみたいになってきたじゃないですか。こんなに膨れ上がるもんでしたっけ?」
物珍しいのか、リシェは目を輝かせながらそれをガン見していた。やがて何かを思いついたのか、付属のカップではなく銀色のボウルをキッチンから持ち出してくる。
「?」
「あと六食ある。全部混ぜてやったらどれくらいまで湧くのか見てみたい」
「えぇ…」
何故そんなに貰ってくるのだろう。まさか、程のいい在庫処分の扱いを受けているのではないだろうかと思ってしまう。一応日付を確認したが、ちゃんと期限に収まっていた。
リシェは意気揚々と粉と水をボウルに突っ込むと、ウキウキとした顔でまた新しくかき混ぜ始める。同時に沸き起こる生地。
「わ、めちゃくちゃでかくなる」
「やっぱり六食は…」
混ぜる度に生地は想像以上に肥大化していった。
「リシェ、辞書貸して…」
スティレンは課題をこなしていたが、辞書を教室に忘れたのを思い出してリシェに借りようと部屋の扉を開く。ノックもしないで開けるのは彼の悪い癖だったが、指摘されても直す気は無かった。
扉を開けたと同時に目の前に広がる異質な光景に、足を踏み入れようとするもつい止まってしまう。
「何この丸いの…」
リシェとラスがテーブルを挟んで座っていたが、そのテーブルの上には巨大化した謎の丸い卵が乗せられている。そして二人は無言でそれを眺めていた。
高さは一メートル位だろうか。
「あ、スティレン。見てこれ。巨大な練り物」
ラスはニコニコしながら話しかけてきた。
「練り物?」
「そう。練り物。お菓子だ。かき混ぜすぎてこうなった」
あまりの巨大さに、スティレンは顔をしかめて「キモ…」と呟くが、お菓子というだけあって甘い香りが漂う。
「なかなか美味しいよ、これ。食べてみない?」
どうやらスプーンで掬って食べている最中だったらしい。
巨大卵を囲みながら食べるというおかしな状況だが、滅多に見るものでもないだろう。スティレンはふん、と強気に鼻を鳴らすと室内にズカズカと入った。
「仕方無いね」
同じようにテーブルに着く。
「どんなものか俺も食べてあげるよ。リシェ、俺のスプーン持ってきて」
「分かった」
命じられ、リシェはキッチンにスプーンを取りに行った。
「全部頑張って食べないとな」
どう見ても単独では消化できない大きさを誇っていたが、三人でどうにか全て完食する。
だが、過剰に摂取したせいか、その日の夜は全員仲良く謎の腹鳴りが激しかったようだ。
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