古河秀明の恋 ①

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 正直、あまり気乗りはしなかった。振られたばかりということもあるけれど、そもそも自分に自信がないからだ。それでも二十七日の夜、言われた通りに十八時に店を訪れた。ドアには『十八時より貸切』と、書いてあった。マスター、ごめんな。心で呟いてドアを開いた。 「いらっしゃい」  マスターは、いつものようにカウンターに立っていた。 「こんばんは」  オレも、いつものようにカウンター席に座った。しばらくするとカランコロンと、静かな店内に鐘の音が響いた。 「こんばんは」  声のするほうに、チラッと視線を送る。ストレートロングの黒髪に、ミニスカートから伸びるスラッとした脚。マ、マスター! なんでこんな綺麗な娘をオレなんかに紹介してくれるんや?  焦りながら、軽く会釈をした。 「すみません。お待たせして」  女性はそう言って、オレの隣に座った。 「いいえ」  ど、どないしたらいいんや?  マスター! そんな視線を送ると、マスターがカウンターの奥に消えて行った。緊張して、冬やのに脇汗がハンパない。 「はじめまして。水戸(みと)です」  なにも話さないオレに、女性のほうから名前を名乗り、名刺を差し出した。慌てて財布を探ると、辛うじて入っていた一枚の名刺を差し出した。受け取った名刺には、『スポーツセンターオアシス 事務員 水戸里実(みとさとみ)』と書いてあった。 「フルカワさん?」  水戸さんがオレの名刺を見て、名を呼んだ。 「‘‘古河’’と書いて‘‘コガ’’と読みます」 「ごめんなさい。古河さん、バス運転手なんですね」 「はい。いつもバスでオアシス前を通っていますよ」  気の利いた会話もできないオレ。マスター! 早く来て! そう思っていたら、石岡さんと一緒に料理を運んできた。 「こんばんは! 今日は私の、大したことない手料理やけど、召し上がれ」  石岡さんがポテトグラタンとバジルパンを運んできた。 「おっ! オレの大好物!」  思わず、本音が出た。自分へのご褒美にこのセットを注文することは、マスターがよく知っていた。 「いただきます」  ろくろく会話もできないまま、オレは大好物を前に我慢できず食べ始めた。水戸さんは、オレの名刺をぼんやりと眺めていた。こりゃあ、脈はないなと思った。 「里実も! 温かいうちに食べてね」 「あっ、うん! いただきます」  石岡さんに促された水戸さんが、グラタンを口にした。もしかして、猫舌? とか思いながら、黙ってグラタンを口にした。 「古河さんは、ずっとバス一筋なんですか?」  口下手なオレに、水戸さんが話しかけてくれた。本当は、オレがしないといけないことを。 「子どもの頃からバスが好きで」 「ほな、私、知らん間に何度も古河さんのバスにお世話になってたかも?」 「そうかもしれませんね」  ここから会話を広げやなあかんのに。なにを話せばいいのやらわからない。 「私、百合ヶ丘団地に住んでるんです。バスは生活の足やから、毎日使ってるし」 「ちなみに古河さんは、ここらへんが地元! ねっ?」  みかねたマスターが、オレの代わりに話し始めた。 「はい。ここには、毎日のように来ています」    緊張してしまって、もともと口下手だからさらに話せなくなった。マスターと石岡さんの助け舟がなければ、何も話せなかったに違いない。それに、水戸さんがおしゃべり好きなようで助かった。印象、悪いやろうな。まぁ、脈なんてないから、印象が良かろうが、悪かろうが、あまり関係がなかった。 「この後は、ふたりで楽しい時間を過ごせば?」  食後のコーヒーをいただいていると、マスターが切り出した。 「ちょうどふたりとも同じ年やし、百合ヶ丘団地までドライブがてら送ってあげたら?」 「はぁ……」  曖昧な笑みを浮かべながら水戸さんにチラッと視線を送ると、ニコッと笑ってうなずいた。なんだか申し訳なく思った。  
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