16人が本棚に入れています
本棚に追加
/43ページ
正直、あまり気乗りはしなかった。振られたばかりということもあるけれど、そもそも自分に自信がないからだ。それでも二十七日の夜、言われた通りに十八時に店を訪れた。ドアには『十八時より貸切』と、書いてあった。マスター、ごめんな。心で呟いてドアを開いた。
「いらっしゃい」
マスターは、いつものようにカウンターに立っていた。
「こんばんは」
オレも、いつものようにカウンター席に座った。しばらくするとカランコロンと、静かな店内に鐘の音が響いた。
「こんばんは」
声のするほうに、チラッと視線を送る。ストレートロングの黒髪に、ミニスカートから伸びるスラッとした脚。マ、マスター! なんでこんな綺麗な娘をオレなんかに紹介してくれるんや? 焦りながら、軽く会釈をした。
「すみません。お待たせして」
女性はそう言って、オレの隣に座った。
「いいえ」
ど、どないしたらいいんや? マスター! そんな視線を送ると、マスターがカウンターの奥に消えて行った。緊張して、冬やのに脇汗がハンパない。
「はじめまして。水戸です」
なにも話さないオレに、女性のほうから名前を名乗り、名刺を差し出した。慌てて財布を探ると、辛うじて入っていた一枚の名刺を差し出した。受け取った名刺には、『スポーツセンターオアシス 事務員 水戸里実』と書いてあった。
「フルカワさん?」
水戸さんがオレの名刺を見て、名を呼んだ。
「‘‘古河’’と書いて‘‘コガ’’と読みます」
「ごめんなさい。古河さん、バス運転手なんですね」
「はい。いつもバスでオアシス前を通っていますよ」
気の利いた会話もできないオレ。マスター! 早く来て! そう思っていたら、石岡さんと一緒に料理を運んできた。
「こんばんは! 今日は私の、大したことない手料理やけど、召し上がれ」
石岡さんがポテトグラタンとバジルパンを運んできた。
「おっ! オレの大好物!」
思わず、本音が出た。自分へのご褒美にこのセットを注文することは、マスターがよく知っていた。
「いただきます」
ろくろく会話もできないまま、オレは大好物を前に我慢できず食べ始めた。水戸さんは、オレの名刺をぼんやりと眺めていた。こりゃあ、脈はないなと思った。
「里実も! 温かいうちに食べてね」
「あっ、うん! いただきます」
石岡さんに促された水戸さんが、グラタンを口にした。もしかして、猫舌? とか思いながら、黙ってグラタンを口にした。
「古河さんは、ずっとバス一筋なんですか?」
口下手なオレに、水戸さんが話しかけてくれた。本当は、オレがしないといけないことを。
「子どもの頃からバスが好きで」
「ほな、私、知らん間に何度も古河さんのバスにお世話になってたかも?」
「そうかもしれませんね」
ここから会話を広げやなあかんのに。なにを話せばいいのやらわからない。
「私、百合ヶ丘団地に住んでるんです。バスは生活の足やから、毎日使ってるし」
「ちなみに古河さんは、ここらへんが地元! ねっ?」
みかねたマスターが、オレの代わりに話し始めた。
「はい。ここには、毎日のように来ています」
緊張してしまって、もともと口下手だからさらに話せなくなった。マスターと石岡さんの助け舟がなければ、何も話せなかったに違いない。それに、水戸さんがおしゃべり好きなようで助かった。印象、悪いやろうな。まぁ、脈なんてないから、印象が良かろうが、悪かろうが、あまり関係がなかった。
「この後は、ふたりで楽しい時間を過ごせば?」
食後のコーヒーをいただいていると、マスターが切り出した。
「ちょうどふたりとも同じ年やし、百合ヶ丘団地までドライブがてら送ってあげたら?」
「はぁ……」
曖昧な笑みを浮かべながら水戸さんにチラッと視線を送ると、ニコッと笑ってうなずいた。なんだか申し訳なく思った。
最初のコメントを投稿しよう!