古河秀明の恋 ①

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 ふたりで店を出た。十九時半を過ぎたところで、帰るにはまだ早かった。かと言って、単なるバスオタクのオレが、初対面の女性をどうもてなしてあげたらいいのやら、わからなかった。 「ここから五分くらい歩いたところに、キンコーのバスターミナルがあるんです」 「古河さん! 同じ年なんやから、敬語はやめへん?」 「あ、えっと……。ほな、そうしますわ」  緊張してチグハグなオレを、水戸さんは笑った。 「バスターミナルの裏の独身寮に住んでるの?」 「えっ? 独身寮なんて、よく知ってんね。ここ地元ちゃうやろ?」  ちょっとぎこちない感じのタメ口。 「地元やないけれど」  水戸さんが視線を落とした。何か、おかしな質問したかな? 気になりながらも触れずに話を続けることにした。 「オレ、そこに住んでるから、車取りに行ってくる。ドライブがてら送っていくわ」 「マイカーって、バスちゃうよね?」 「いくらバス好きでも、マイカーちゃうわ!」  敬語からタメ口に変えただけで、不思議なことに緊張がほぐれた。  愛車はグリーンのミニクーパー。趣味らしい趣味もなく、浪費もしないから、車にはお金をかけている。 「かわいい車やなぁ」 「オレがバスの次に好きな乗り物やからね」 「よっぽど好きなんや、バス」 「地元がここやから、このバスターミナルには小さい頃からよくバスを見に来ていて。あんな大きい乗り物を、ひとりで動かして、お客様を運ぶ。カッコエエなぁ! って」  水戸さんは、無言になった。自分のバス愛を、つい熱く語ってしまった。だからあかんねんや、オレ。 「ご、ごめん……」 「えっ? なにが?」 「ひくやろ? オレ、バスオタクやから」 「夢中になれるもんがあるって、いいと思うよ」  水戸さんは、笑顔でそう言ってくれたから、ちょっと救われた気がした。 「事務員って、どんなことしてるの?」  スポーツセンターに近づいて来た時、気になることを質問した。 「フロントでの受付、接客。店内商品の販売、館内の美化、清掃。あとはお客様に運動プログラムを紹介したり」 「受付嬢ってことか」 「そんなええもんちゃうよ」 「水戸さん目当てに来るお客さん、絶対いてると思うわ」  つい、本音を言ってしまった。見た目は美人で、ちょっと近寄り難い雰囲気はあるけれど、話すと気さくで明るい女の子やから。  お互いの仕事のことを少し話した頃、車は、百合ヶ丘団地近辺に到着した。まだ二十時前。でも、自分から誘えないオレは、一旦、車を止めた。 「えっと、どっちに行けばいい?」 「うちは、そっちのほうやねん。悪いけれど、近くまで送ってもらっていいかな?」  水戸さんの指差す方へと車を走らせた。 「そこらへんで止めてもらっていい?」  水戸さんに言われた通りに車を止めた。 「連絡先、交換しよ?」  信じられないけれど、オレから言えなかった言葉を、水戸さんから言ってくれた。 「ありがとう。じゃあ、またね」 「こちらこそ、どうも」  石岡さんの紹介やから、一応、連絡先を交換してくれたんやろうな。脈なんかない。最初から終わってる、そう思った時やった。 「秀明(ひであき)くん!」  いきなり名前で呼ばれてびっくりした。目を丸くするオレに、水戸さんは笑って言った。 「次、休みはいつ?」 「さ、三十日……」 「じゃあ、ご飯食べに行こ? もっと話がしたいから」  う、嘘やろ? ほとんど会話らしい会話もできんかったオレと? 「また連絡するね! あ、それと『里実』って呼んでいいからね」  水戸さん……里実ちゃんはそう言うと、軽く手を振って、歩いていった。オレは、信じられなくて、しばらくハンドルを握りしめたまま、動けなかった。
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