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その日も諒子は、いつものように駅の改札を出た後、帰宅ラッシュ時の人ごみを歩いていた。
なんだかんだ言って、リモートワークも、そんなに定着しなかった。結局、以前と同じように通勤ラッシュにもまれる毎日だ。今日も一日お疲れ様、と自分自身に労いの言葉を呟いた時。
「ちょっと、そこのお嬢さん」
後ろからかかった声に思わず振り向くと、駅の雑踏の中に、一人の初老の男性がにこにこしながら、立っていた。
「これ、落とされましたよ」
身なりの良い男性が差し出した右手には、万年筆が一本握られている。
一瞬彼女はきょとんとしてしまった。自分は万年筆は使わない。しかも、見るからに高級そうなブランドで、キャップの先端が眩しく光っている。ダイヤモンドでもあしらってあるのだろうか。そんな高級品、ますます縁が無い。
「あの……それ私のじゃありません」
諒子の答えに、相手は意外そうな表情を浮かべた。
「本当ですか?」
「ええ、私のじゃありません」
重ねて否定した途端、今までにこやかに笑っていた男が、突然顔色を変えた。露骨に不愉快そうに顔をしかめると、何も言わずに、背中を向けて行ってしまった。
なんだろう。何だか変な人だな。諒子は首を傾げながら歩き出した。
それから一週間ほど後。
いつもと同じように、改札を出た諒子が帰宅ラッシュの人ごみを歩いていると、後ろから声がかかった。
「ちょっと、そこのお嬢さん」
思わず振り向くと、そこに一人の初老の男性が笑みを浮かべながら、立っている。
「これ、落とされましたよ」
見覚えのある男が差し出した手には、品の良いイアリングが片方乗せられていた。上品なパールホワイトの大粒の真珠に小さなダイヤがふんだんにちりばめられた、いかにも贅沢な感じのするものだが、残念ながら一目見ただけで自分の物ではないのがわかる。
間違いない。この人、一週間程前に「落としましたよ」と万年筆を差し出してきた人だ。
「それ、私のじゃありません」
少々強めに諒子が答えると、相手はまたもや意外そうな表情を浮かべる。
「本当ですか?」
「違います!」
ムッとした調子で彼女が再度否定した途端、男は「チッ」と思い切り大きな舌打ちをした。そして憎々し気に顔をしかめると、背中を向けて歩き去って行った。
(何、あの人)
何だか怖くなってきた諒子は、急ぎ足でその場を離れた。
その翌日のランチタイム。諒子は、会社の同僚の理沙に、つい最近体験した出来事を話してみた。
「何だか、変なオヤジでしょう」
「ふーん。でも、身なりはいいんでしょう?お金持ちかもよ」
「だから何?」
「あんたが綺麗だから、何か恵んでくれようとしてるんじゃない?いいなあ」
「やめてよ。全然嬉しくないよ」
「今度声かけられた時に、高そうなものだったら、“ああ、そうです。すいません”とか言って貰っちゃったら?。それをきっかけにして、パパになってくれたりして」
「冗談じゃないわよ。しかも、断った途端に形相が変わったしさ。ストーカー気質なんじゃないかな」
「アハハ、考えすぎよ。諒子は昔から神経質だからね」
「理沙ちゃんが鈍感すぎるのよ」
それから数日後の夕方。いつものように帰宅ラッシュの雑踏を歩いていた諒子は、またもや声をかけられた。
「ちょっと、そこのお嬢さん」
一瞬ドキッとしたが、三回目ともなると多少の余裕も出て来る。諒子がゆっくり振り向くと、果たして例の男がニコニコしながら、立っている。
「これ、落とされましたよ」
いつもと同じセリフと共に男が差し出した手には、今度は一つの財布が乗せられていた。LV社の華やかなロゴをあしらった漆黒の皮が、妖しいまでの光沢を放っている。ため息をつきながら何度もカタログの写真を眺めていたものだ。諒子の目が釘付けになった。
(これ、欲しかったんだよなあ……)
「貰っちゃったら?」という理沙の声が蘇ってくる。貰ってもいいかもしれない。このオヤジ、どう見ても自分に貰って欲しいように見えるし。
「……どうも……」
幽かな声で呟きながら、右手をゆっくりと伸ばした時。
「待ってください」
低いが、はっきりとした声が背後から聞こえた。
我に返った諒子が振り向くと、黒ぶち眼鏡に地味なスーツの若い男性が、緊張した面持ちで立っていた。
「受け取ってはいけません」
首を振りながら諒子にそう言った男性は、今度は初老の男の方に向き直った。
「あなた、この人に何を渡そうとしてるんですか?」
「いや、あの、この方がこの財布を落とされたんで……拾ってあげた、だけです」
男の目は泳ぎ始め、口調もしどろもどろになっている。
「この女性はその財布を落としていません。あなたが自分のカバンから出したんじゃないですか。私、見てましたよ。何故、それをこの方に渡そうとしてるんですか?」
雑踏のざわめきの中、決して大声ではないが、相手の目を見据えながら男性が詰問する。その口調は、言外に何か含むところがあるようにも聞こえた。
「くそっ!」
男は相手を睨みつけると、逃げるように走り去って行った。
「大丈夫ですか?」
男性が、今度は柔らかい調子で諒子の方に語りかけた。
「え?はい、ああ、あの……」
自分の物でないのに貰おうとしていた所を見られてしまった彼女としては決まりが悪い。
「ご気分は如何ですか?体がだるいとか」
「まあ……言われてみれば、少し疲れたような……」
「少し影響が出たかもしれませんね」
諒子には相手の言葉の意味が良くわからなかった。
「今の状況について、少々ご説明が必要だと思います。ここでは何ですから、そこのファミレスでいかがでしょう」
人懐こい微笑を浮かべる男性の言葉に、諒子は「はあ……」と頷いた。
「ご挨拶が遅れましたが、私、柳田と申します。カウンセラーをしております。どうも初めまして」
ファミレスのテーブルで諒子の前に座った柳田は律儀に頭を下げた。
「初めまして。あの……吉沢です」
まだ何が起きたのかよく分からない諒子は、とりあえず名前だけを答えた。
「初対面の方をいきなりお茶に誘ってしまいましたが、決してナンパなどではありませんのでご心配なく。ただ、あそこの人ごみの中では、お話がしにくかったものですから」
柳田の実直そうな口調に諒子の警戒心が少しほぐれた。
「それで、ですね。先ほどご気分について伺ったのは……あの男が渡そうとしていた財布が、とても”悪いもの”だったからです」
「悪いもの、ですか?」
「はい。悪いというのは、少々スピリチュアルな意味なんですが、あの財布は非常に強い邪気、平たく言うと強烈な悪意や怨念みたいなものを発散していました。私があそこを歩いていたら、偶然その強烈な邪気を感じたので、何だろうと思って近づいてみたら、まさにあの男が貴女に財布を手渡そうとしていたというわけです」
「強烈な悪意や怨念ですか?」
諒子が気味悪そうに眉を顰める。
「はい。実際、危ない所でした。実は、あれは自分の念を込めた物を相手に持たせることによって呪いをかける呪術なんです。もし、貴女があれを受け取って、自分の物にして持ち歩いていたら……」
「どうなっていたんです?」
不安そうに尋ねた諒子に、相手は恐ろしい言葉で答えた。
「……近いうちに命を落とされていたと思います」
「命を……」
柳田の言葉に、諒子は愕然とする。
「あの男から恨みを買うような覚えはおありですか?」
「特に覚えは無いんです。それどころか、そもそも名前も知らない人なんです。この二週間程の間にこの改札のあたりで二回程、”落としましたよ”とか言って声をかけられただけなんですけど……」
諒子が過去二回の出来事を詳しく話すと、柳田は軽く頷いた。
「多分、あの男は貴女のことをこの駅で見かけて、この呪いをかけようとしたのでしょう。最初の二回までは、自分に貴女の気を向けさせようとする呪いだったのかもしれませんね。だが、二回とも失敗した。そこであいつは逆上して、一転、貴女を殺そうと思い立ち、あの財布を渡そうとしたのでしょう」
「そんな……」
殺されるところだったなんて……諒子はあらためて身震いした。
「でも、もう大丈夫です。自分の企みも手の内も露見してしまったわけですから、もう貴女に手出しは出来ないでしょう」
「はあ……有難うございます」
そう言えば、まだお礼の一言も言っていなかった。諒子は慌てて頭を下げた。
そうは言っても、ストーカー気質の男に呪いをかけられるなんて、やっぱり異常なことだ。しかもあいつは自分が朝晩利用するこの駅に出没しているのだ。
「ええ、お気持ちはよく分かります。確かにご不安でしょうね。念のため、私の名刺をお渡ししておきます」
不安そうな表情のままでいる諒子に、柳田は一枚の名刺を差し出した。
”スピリチュアルカウンセラー 柳田孝晃"と草書体で記された名刺に、携帯電話番号とメールアドレスが印刷されている。
「何かありましたら、いつでもご連絡ください。ああ、変な宗教の勧誘じゃありませんからご心配無く。勿論お金も頂きません。自らの修行を兼ねて、ボランティアでやってる人助けなんです」
「有難うございます!このお名刺、お守りにさせてもらいます!」
藁をもすがる思いで、諒子は何度も頭を下げた。
「もしもし、万事うまくいきましたよ。ええ、彼女には先程呪いがかかりました。まあ、一週間以内に結果が出るでしょう。楽しみに待ってて下さい、ふふふ。ええ、大丈夫ですよ、私自ら念を込めたものを直接手渡したんですから、確実です。えっ?いやいや、そんな高級品じゃないですよ。ただの名刺一枚です、あははは。それじゃ、報酬の方、宜しくお願いしますね。あのおっさんにもバイト代を払わなきゃならないし、色々物入りなんですよ、ふふ。じゃ、早めにお願いしますよ。理沙さん」
[了]
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