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待ち合わせ場所に行くとパナマ帽をかぶり、大きなマスクをつけた三畑航が待っていた。眠たげな目に妙な色気がある。私が声をかけるより前に航が気づいた。
「みーちゃーん!」
色気が吹き飛ぶ。毎度のことだが、はっきり言って恥ずかしい。自分たちが芸能人だというのを忘れているのではないだろうか。三畑航は一言で言えばギャップの塊だった。いい意味でも悪い意味でも。
所属していたアイドルグループが解散になったときには本当にどうしようかと思ったけれど、そこで芸能界から足を洗わなかったのは他の道が見えなかったからだ。じゃあ、芸能活動を続けていく上でさてメインを何にしようかと考えたとき浮かんだのは役者という選択肢だった。なぜかと言えばバラエティーが嫌いで歌やダンスで食べていくのが無理だと思ったからだが、偉そうに選べるほど演技が上手いわけでもないので、仕方なくなけなしの金を払って演劇を学べる大学へ通った。と簡単に書いたが、本当に地獄のような日々だった。勉強に専念しているだけではもちろんダメで同時に芸能活動もやらなくてはいけない。大嫌いなバラエティーや懐かしの(!)持ち歌を苦笑いを浮かべて歌ったりドラマ端役を元アイドルってだけで何とかもらったりしてごまかしごまかし芸能界を泳ぎ、何とか卒業した。まだまだ元アイドルの肩書きを借りてはいるものの徐々に端役ではない役を貰い、そこそこの評価を得るようになっていた。その時、私はすでに三〇歳を二つ三つ超えていた。
三畑航とはその頃の映画の共演で知り合った。「何なら今すぐ帰りたい」という変な題名の映画だ。私と航以外、劇団出身の名優だらけという胃潰瘍を起こしそうな現場だった。航はモデル出身である。立っているだけで演技になるような面々の中で航は堂々と演技をしていた。私は総毛だった。下手をすれば私一人悪目立ちどころか空気にされてしまう。他の仕事に支障が出るほど役のことばかり考えていた。
だから、航の印象と言えば演技のことばかりで航のひととなりどころではなかったのだ。クランクアップの後はすさまじい虚脱感で航のことなど完全に意識の外だった。だから、映画の共演がきっかけで付き合いだしたと言うのは不正確だ。正確にはその後の番宣のために出たバラエティーがきっかけだった。
「そうですね。私は三畑さんの演技が印象的でした」
『何なら今すぐ帰りたい』はなんと興行収入ランキングトップテンに入った。確かに胸を張っていい映画だったと言える出来だったが、映画の出来と興行収入は必ずしも比例しない。有名アニメでもハリウッドでもない、主演は演技派ではあるが超有名人でもないロクに宣伝もされなかった映画がここまで観客を引っ張れるとは思わなかった。マスコミも現金なものでこうなった途端、今まで推してきた映画を放り出して、『何なら』の出演者に取材をかけた。冒頭の言葉はとあるバラエティーに出演者が何人か呼ばれた時の私の言葉だ。MCの「印象に残った役者さんは?」の答えだった。
「ああ」
MCは薄笑いを浮かべた。
「三畑くん、イケメンだから」
正直、かちんときた。おバカな元アイドルは演技の良し悪しの判断もできないから顔で選ぶってか。ふざけんな。美人の大根役者ばっかりほめそやすお前とは違うんだ。
「え、イケメン?」
私は目を丸くして見せた。航へ体ごと向いて視線を送る。
「あ、そうでした。イケメンでしたね。三畑さん。そうそうイケメンイケメン。忘れてた」
ここぞとばかりに芸人たちがあれこれ突っ込む。私は大袈裟に手を振った。
「いやいや、こっちはイケメン鑑賞どころじゃなかったんですって。三畑さんの目の演技が凄すぎて、もう必死。なんであんなに目を濡らしたり乾かしたりできんのみたいな。他の出演者さんたちはもう凄いのわかってたんで覚悟してたけど、三畑さんの演技ちゃんと見たことなくて、どんなかなと思ってたら予想以上で、これはやばいなって。あたしこのままじゃ空気だよって。きゃあ、イケメン。どころじゃなかったんですって」
「海遥ちゃんもうぴりっぴりで、すごかったですよ。他の人の演技かじりつくように見て、監督より海遥ちゃんの方が怖かったもん」
主演の俳優が助け船を出した。
「力抜けって君枝さんに肩揉まれてたもんな」
「あれ、海遥ちゃんのファンが見たら卒倒するんじゃない?」
「元でもアイドルの顔じゃねえよ」
「ひどい!」
出演者にフォローされ、その場は流れた。帰りに航は私を食事に誘った。 そのあとも何度か航は私を食事やドライブに誘い、私も時折、誘った。そんなことを繰り返して、恋人になった。何度か目のデートで流石に航がミステリアスでも無口でもないことはわかっていたが、本格的に付き合うまで色気のある目元が台無しになるほどだとは知らなかった。その代表例が冒頭である。
「わかったから、ちょっと静かに」
「うんうん。どこ行く? あ! まずご飯だよね!」
聞いてない。
「しっー。バレるから」
「なんか、マスクの上からのしーって可愛いね」
「 ……パスタがいい」
私は会話を諦めた。
「最近パスタのリクエスト多いね」
「ドラマの役でパスタ食べるシーンがあるの。きれいに食べたくてだから練習」
「あーそういうことか」
「たまには別の食べたいなら合わせるけど」
「いやいいよパスタで」
「本当に食べたいのは?」
「んー、ラーメンとか」
「大丈夫? 体絞ってんじゃなかったっけ」
「そうなんだけど」
「あ、でもだったらパスタもダメか。和食にしよ」
「いや俺サイドメニューつまんでるから。みーちゃんといればどんなことでも耐えられる」
「いや、食べづらいわ」
「本当に。みーちゃん可愛いし」
「あー、はいはい」
「ほんとだよー! 信じてよー!」
「わかりました。だから、音量下げて!」
文字にすればイチャイチャラブコメなのかもしれないけれど 実際にやられてみればはっきり言ってただ恥ずかしいだけの地獄と化す。それでも航と別れないのは、別に色気のある目元にやられたわけでもなければ、整った顔立ちによろめいたわけでもない。彼のステータスも興味がない。むしろ興味があるのは自分のステータスの方だ。三畑航のカノジョなんて覚えられ方は最高の屈辱でしかない。航と別れないのは時折見せるびっくりするほど遠い眼差しだ。 妙に乾いたそのくせ今にも涙が溢れそうな何とも言えない眼差しだった。その眼差しで、時折航は遠くを見つめている。遠くと言っても景色を見ている訳ではないことぐらい私にもわかった。一度、何を見ているのか聞こうとしたことがある。だが、口を開く直前に航は不思議そうな顔で言ったのだ。
「みーちゃん、何を見てるの?」
あまりに無垢な目に私は首を振った。あの眼差しが心に引っかかってどうしても別れの文字が出てこない。
「やっぱり和食にしよ。あたし魚食べたい」
「魚! 魚いいよねえ。美味しいよね。天ぷらは? あれ、スマホどこだっけ」
道のど真ん中でバッグを引っ掻き回す。ハンカチやらティッシュが零れ落ちる。残念なイケメンという言葉が浮かんだ。
「あたし調べる。天ぷら太るから煮魚とか焼き魚にしよ」
ああ、疲れる。一体この男のどこにあんな目をするものが隠されているのだろう。
航と秋刀魚の塩焼きを食べて一か月後、私たちは週刊誌に載った。もちろん熱愛報道だ(熱愛した覚えはないが)私は事務所の着信を無視して航に電話した。航はすぐに出た。
「どうする?」
「どうするって?」
「事務所にはまだ何にも言ってない。正直に言うつもり。航は?」
「俺もだよ」
「その先は」
「なんで週刊誌に撮られたら別れる別れない考えないといけないの? 別に秘密にしてたわけじゃない。聞かれなかったから答えなかっただけだろ」
「わかった」
「みーちゃんは? 別れたい? 事務所に怒られるでしょ」
「事務所にならしょっちゅう怒られてるし。芝居はどこでもできるよ」
結論から言うと事務所からは別段怒られなかった。これがアイドルだった時だったら激怒どころじゃないだろう。私はこのときはじめてアイドルじゃなくてよかったと思った。航は事後報告のことを言われただけで解放されたらしい。もっとも、航のファンクラブの会員とお仕事は少し減ったらしい。それでも航は相変わらず色気のある目元を台無しにしながら「みーちゃん」と手を振り、時折、例の不思議なまなざしで遠くを見る。私はその台無しぶりに辟易しつつ、あの眼差しをどうにかできないか考えている。
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