誰そ彼だから

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 下校時刻を告げる放送が入った。私はピアノの手を止めると後片付けをして鞄を肩にかけた。音楽室の戸を思い切り引く。 「痛って」 声と共に戸がつっかえた。慌てて隙間から外を見ると同じクラスの野上尋詩が立ち上がるところだった。 「何してんの」 「本読んでた」 「ここで!?」 前々から変な奴だと思っていたが、いくらなんでも予想外過ぎる。 「ピアノの音が聞こえたから本読むのにちょうどいいって思って」 「ピアノ好きなの?」 「特にこれといって。あ、サティ好き。えーっとノグエ」 「グノシエンヌ? 中学生の趣味じゃない」 「いいの? 帰らなくて」 「帰るよ」 下校時刻を破ってピアノを禁止されても困る。私の唯一の楽しみなのだ。祖母が体を壊してから家でピアノを弾くのは禁止されている。だから音楽の先生に頼んで下校時刻まで弾かせてもらっているのだ。 「俺も帰る」 野上は歩き出した。私は慌てて後を追った。野上は早足だった。靴箱前でようやく追いつく。外はもう薄暗くてあと少しで夜になるというところだった。誰かが電気を消したらしく、自分の靴箱が少しわかりにくい。微かに夕日が差し込んでいなかったらスマートフォンを出しただろう。私は靴箱を探しながら言った。 「本当に何してたの。こんな時間まで。部活とかやってないでしょ」 部活どころか学校に来るのでさえ、週に三日くればいい方だろう。別にいじめられているわけではない。 理由はまったくくだらなくて、例えば天気が良すぎるとか、予約していた本が図書館に届いたとか、朝早く起きて散歩していたらなんだか楽しくなっちゃってとか、冗談としか思えない理由が大半だ。親はおおらかなのか放任主義なのかもう諦めているのか何も言っていないようだ。 「図書室でいい本を見つけてさ、読む場所探してたの。そしたらここにたどり着いた。最初は戸を開けたんだけど、本読むにはうるさくて。戸を閉めるといい感じで薄っすらピアノが聞こえていいんだ」 野上も靴箱を探しながら答えた。 「全然気づかなかった。てか悪かったね。うるさくて」 ようやく自分の靴箱を見つけて靴に履き替えた。 「ピアノってあんなもんだろ。あまり大きな音だと本に集中できないじゃないか」 「それはそうなんだけど」 「毎日弾いてるの? ピアノ」 「先生が許可を出せばね。家じゃ弾けないんだ。おばあちゃん寝てるから」 二人は外に出ると歩き出した。部活を終えた生徒たちがまだたくさんいたが、薄暗いせいで誰が誰だかいまいちわからない。 「野上は今日何で学校に来たの」 「気分」 「だけ?」 「他に何か理由がいる?」 「普通さ、みんなが行ってるからとか親に怒られるからとか友達がいるからとかそういう理由で行ってんじゃないの」 「勉強なんてどこでもできるだろ。友達も。学校だけじゃないし。でも学校の友達とか勉強が駄目ってわけでもないし。今日はたまたま学校に行きたいなと思って行って。昨日は学校って気分じゃないなっていくのやめて。そんな感じ。親が怒らないっていうのはすごくすごく恵まれてると思う。自分でもさ。親に怒られるんだったらもしかしたら毎日行ってたかもしれないし逆に全く行かなかったかもしれない」 「いいなあ。うちの親絶対そんなの許さないよ」 「学校行きたくない日あるの?」 「当たり前じゃん」 「みんな毎日行きたいから行くんだって思ってた。 口では行きたくないって言ってるけどやっぱり結局行きたいから行ってるんじゃないのかと思ってた」 「さっき言ったじゃん。行かなかったら怒られるから行くって。 どうしてもってほどじゃないけど、行きたくない日ってあるよ。でも怒られたり理由言うのが面倒だから行ってるの」 「でもさ、白河の場合は 学校行かないとさピアノが弾けないわけでしょ。じゃあ行きたくなくてもちょっと我慢しないと。俺だって自由に学校行ったり行かなかったりしてるけど先生とか校長に呼ばれてめんどくさいなって思うことあるよ。でもまあそれはしょうがないって我慢してる」 「そう言われればそうなんだけど」 「好きなことをするためには 我慢しなきゃいけないこともあるんだよなあ」 薄暗くて野上の表情はよく読めなかったけれど、なんだかひどく 真剣に聞こえた。  驚いたことに 次の日も 下校時刻 の放送を聞いて 音楽室の戸を開けると野上が寄りかかっていた。 「いつのまに学校に来てたの」 確か今朝はいなかったはずだ 「ひでえなあ。三時間目からいたよ」 「変な時間に学校に行く気分になったんだね」 「うんまあそんなところ」 野上は立ち上がるとすたすた歩き出した。私は足を早めてどうにか靴箱の前で野上に追い付いた。相変わらず薄暗くて野上の顔はよく見えない。 「今日どうだった」 「どうって何」 「ピアノ」 「本すごく読めた」 「何か褒められた気しないなぁ」 「そう? 俺にとっては結構な褒め言葉なんだけどな」 二人は外に出た。 「白河はさ、ピアニストになるの」 「ピアノが好きだからってピアニストになれるわけじゃないじゃん。音大に行きたいけどさ多分反対されると思う」 「もったいないな。ピアノが好きなのに」 「好きでなれたらだれも苦労しないって。ほんとはね、電子ピアノ買ってもらってヘッドホンつけて音消しすれば、家でだってピアノ弾けるんだけどやっぱり違うんだよね。電子ピアノが悪いんじゃなくてさ。なんか、ピアノと違うんだ」 「白河はピアノの方が好きなんだ」 「そう」 夕暮れ時で野上の表情がよくわからないせいか、私は信じられない程口が軽かった。 「俺の家にピアノがあればな。白河に弾かせてやるのに」 「いや、なんで」 「だってうち、ばあちゃんどころか親だって遅くまでいないからさ、好きなだけ弾けるよ」 「そういう問題じゃないけど」 「あ、そっか。白河の親に怒られるか。でも、俺が家にいなきゃいいだけじゃん」 「……ありがと」 変な想像するやつだと思った。でもそうだったらよかったのに。 「悪いなあ。ピアノ高いから俺の小遣いじゃ無理だわ。俺すぐ使っちゃうから」 「いらんわ。受け取りづらいでしょ。そんなプレゼント」 野上はけらけら笑って答えなかった。  次の日、なんと野上は朝から学校に来た。クラスの男子にどうしたお前なんて言われている。 「んー、来たくなった」 「お前自由だなー」 「学校をゲーセンと間違えてんじゃねえのか」 「つか、野上ってゲーセン行くの?」 何を言われてもへらへら笑うだけで野上はなにも答えない。本当にどうしたのだろう。別に私たちは言葉も交わさずそのまま放課後になった。 「痛って」 「え、また?」 音楽室の戸を開けると野上の声がした。 「もう 三回目なんだからさ。ゆっくり開けようよ」 「いや、 そもそもそこにいるのがおかしいから」 「帰ろ」 野上はいつも通り返事もせずに歩き出した。私もいつもどおり慌てて追いかけ、薄暗い中靴を探して帰り道が別れるまでどうでもいい話をした。野上は最後に必ず、ピアノを買えないことを嘆いて帰る。やっぱり変な奴だ。 次の日も次の日も野上は朝から学校に来て、 (時々行方をくらませるが)みんなと同じように授業を受けるようになった。そして放課後、音楽室のドアに寄りかかって本を読む。私はもういい加減そっとドアを開けるようになり、野上は振り向きもせず立ち上がって帰ろうと言って歩きだし、私はやっぱりそれを追いかけて薄暗い靴箱の所でようやく追いつく。本当はどうして毎日学校に来るようになったのとか音楽を聴きながら本を読みたいならここじゃなくてもよくないかとかいろいろ聞きたいことがあったけれど、なんだか聞くのが気恥ずかしくてなにも言わなかった。野上と喋るのは放課後の帰り道だけで他はほとんど言葉を交わさない。野上は実のところちょっとモテたから、 みんなの前で話しかけてこないことに安堵している。 だけど放課後のひとときは本当に楽しかったから、本当はもう少し喋りたかった。そんなこと絶対に言えなかったけど。 「野上?」  下校時刻を告げる放送が流れ、私はいつものようにそっと戸を開けた。野上がいない。今日、野上は学校にいたはずだ。私は自分でも驚くほど足取り重く靴箱へ歩いた。別に約束していたわけでもない。野上が気まぐれを起こしたって不思議はない。だけど、ピアノを弾いていた時の浮き浮きした気分が一気に沈んでしまった。 「白河」 野上は靴箱の前にいた。 「何してるの」 「法川に廊下に座んなって捕まって職員室で説教されてた。で、終わって慌てて音楽室行ったらら今度は瀬山に見つかって早く帰れって追い返された」 法川は生活指導で瀬山は学年主任だ。運が悪い。 「最悪だったね」 「うん。最悪。帰ろ」 今度はびっくりするほど自分の気持ちが急上昇したのが分かった。これってつまり。 「白河?」 「何でもない。帰ろ」 私は急いで言った。これ以上は考えない方がいい。楽しくお喋りしたかっただけだ。それだけだ。 「黄昏って知ってる?」  その日の夕暮れはやけに赤くてまさに昼と夜の間という感じだった。いつもより野上の顔が見辛い。 「知ってるよ。それぐらい。夕方のことでしょ。昼と夜の間の夜寄りの」 ちょうど今ぐらいの時間だ。 「なんで黄昏っていうか知ってる?」 「それは知らないけど」 「誰そ彼は――彼は誰? から来てるんだって。顔がわからないからあの人誰から」 「へえ、なんか格好いいね。昔の言葉って凝ってる」 「俺ね、黄昏好きなんだ」 野上は唐突に言った。 「なんで」 「顔よく見えないじゃん。どんな顔しててもあんましよくわかんない」 「夜じゃダメなの」 「夜は帰んなきゃじゃん。電灯ついちゃうし。ついちゃったら顔見えるでしょ」 一応、夜は家に帰るって認識はあるんだ……ん? 「ごめん、ちょっと待って。何の話?」 何か今すごく大事なことを言われた気がする。 「た、そ、黄昏が好きって話」 野上の声が上擦る。こんな声、初めて聞いた。 「え、待って。違くない? どんな顔しててもって。野上、どんな顔」 近づくと背を向けられた。 「じゃ、また明日」 野上の声はもういつも通りだ。でも、顔は? 「待ってって!」 慌てて呼び止めたけれど、野上は昼と夜の間に吸い込まれてるみたいに振り向きもせず行ってしまった。 「どんな顔してんの。あいつ」 どんな顔してんのって言ったけど、でも、もしかして 本当にもしかしてなんだけど、 ほんの少しだけ上ずった声に、毎日学校に行くようになったことに、ちょっとだけ、うぬぼれてもいいのだろうか。つまり、どんな顔かと言えば、多分、今の私と同じような顔だってことでいいのだろうか。
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