檻の外へ

1/1

23人が本棚に入れています
本棚に追加
/45ページ

檻の外へ

 マルテカリのスラム街に、ダレン社の支部はある。  そこはいたって普通の民家のように偽装されていながら、地下への階段があり、広く作られた秘密部屋へ移動することができるのだ。  秘密部屋はダレンの新鋭魔技器が設置されていて、マーチ各地から情報のやり取りが可能な通信魔法を使うことができる。  その通信魔法を利用して、シグマジャはダレンの首領に『黒の魔女』を捕縛したことを連絡していた。 「間違いありませんでした。この目で確かめるまで信じがたかったのですが、確かに血魔法(ブラッドマジック)を持った娘です。黒い髪に、マナを奪う禁忌術。まさに黒の魔女……」  興奮冷めやらぬといった具合に少々饒舌になりながら、シグマジャは首領に報告を行う。  そのまま指令を受け、黒の魔女を本拠地へ輸送することを了承したシグマジャは通信を終える。 「……ククク。これで(ワタクシ)も首領のお側に置いて頂けるというもの……」  頬を朱に染め、うっとりと耳に残る首領の声に暫し情を昂ぶらせ、ダレン社マルテカリ支部長は熱い溜息を吐くのであった……。    **********  教会に勤める神官騎士はその誇りと正義を何よりも重視する。  街の平和を護るのはイホテ神の名の許、誓いをたてた騎士団であるべきなのだ。日頃の鍛錬も、神への信仰も培ってきた。  それをひょっこりやってきたような寄せ集め組織の『虹川党』などに踏みにじられるわけにはいかなかった。 「教区長は、なぜあのような阿諛追従(あゆついしょう)の輩を気にかけるのだ……ましてやアレの中にはゴズウェーがいると云うのに」  眉間に皺を寄せた神官長のタンネンベルクは苛立たしく愚痴をこぼす。  人種間橋渡し組織という名目で作られたらしい虹川党は、その行動目標の一つに犯罪組織ダレンの撲滅を掲げているらしい。現状は何でも屋のような物で適当に使ってやればいいと教区長のアルマールは告げた。  しかし、タンネンベルクはあの組織に力を借りなくてはならないとは考えられないのだ。  どう考えても騎士団のほうが練達しているし、このマルテカリはイホテ神の信仰の許、自分達がこれまでも守ってきていた。  たしかに、現状は闇市などの問題を抱えているが、もちろん好きにさせておくつもりはない。  虹川党の小娘が誘拐されたとあっては、確かに警備隊の名折れであるし、早期に対応しなくてはならないだろう。出来る事なら虹川党よりも早く我らマルテカリ神官騎士団で解決してやる必要がある。誇りにかけて。 「もう大体の見当は付いているのだ……ダレンだかなんだか知らぬが、必ず根絶やしにしてくれる」  タンネンベルクはスラム街のダークエルフたちが暮らす通称ゴキブリ地区への制圧作戦を練っていた。  ダークエルフを蔑んで、悪のレッテルを貼り付けた、色眼鏡を通してみる彼はエルフのプライドにかけて、虹川党を出し抜くために立ち上がった――。  ――一方、フェンリス家にて気付け薬を作り上げたセインが、虚ろな表情のシャーリーへポーション化させたものをコップで飲ませるところだった。 「いいか、コレは治療薬ではない。朦朧としている知覚を殴りつけて叩き起こすようなモノだ。つまり、劇薬の一種になる」 「そんなものを与えて平気なのか?」  セインの説明に怪訝な表情でヨナタンが心配した。 「毒を以て毒を制す。今の俺にできる最良の対応は、これだと判断した。安心しろ、死んだりするような薬じゃない」  不安げなチタニアにそう付け加えるが、ナミィもその言葉に緊張してしまう。 「どくって……。お母さん、本当にたすかるの?」 「コレを飲めば、母親の意識ははっきりと覚醒するだろう。だが、それは一時的なもので、また次第に思考がぼんやりとしてくる。それに凄まじい疲労感や精神的不安が心身を苛むことになる」 「じゃあ、お母さんは治療できないんですか?」  悲痛な声でチタニアがセインにすがってくる。ナミィも、小さな身体を震わせていた。 「本人次第だ。ドラッグで破壊された心身は、薬だけでは完治できない。ごまかすことは出来ても、最終的にはその人の精神力が要になる。それはどんな病気も同じだ。病は気からというだろう。だから、当分の間、母親は酷く苦しむことになるだろう」 「……そんな……」 「だから、お前たちがいるんだ。苦しい時、本当に救いになるのは愛情だ。母親が打ち負けそうな時、家族であるお前たちが応援してやるんだ」  セインはチタニアとナミィへ覚悟を促しているようだった。  おそらく母親のために必要なリハビリはこの家族に苦難の道を歩ませることになるだろう。しかし、それに打ち勝つことが出来れば、母親はかつての元気な姿を見せてくれる。苦しみを越えた先の希望を手につかめるかは彼女たち次第だと、セインは強く念を押した。  ヨナタンは、そんなセインの言葉に少し驚いていた。  まさかこの男から家族の愛情という言葉が出てくるとは思わなかったからだ。 「飲ませても、いいか?」  セインは最終確認のように姉妹へ訊ねた。  チタニアは母親を見つめる。こちらの話が聞こえているのか、いないのかもハッキリしない表情でぼんやり中空を見つめていて口を開いている。  このままずっとこうなのだろうか。これでは死んでいないだけで、活きてもいない。チタニアは、苦しくても人生を活きて、家族と過ごしたかった。  ナミィはよく話しを理解できていなかった。だから、ただセインの瞳を見ていた。このダークエルフがどれだけ真剣に思ってくれているのか、それだけを知りたかったのだ。  金色の瞳は、強くこちらを見ていた。  自分はまだまだ子供だ。それは自分自身分かっているし、姉も父も、自分を子ども扱いする。街をあるけば大人たちは見下ろしてくる。痛みやゆがみに触れさせないためのどこか柔らかい膜を通して、こちらを見下ろす。  しかし、このセインにはそれがない。ナミィを一人の人間として扱っている瞳だった。厳しい現実に立ち向かえという、責任感に訴える視線にナミィは頷いたのである。 「お願いします」  姉妹の返事を聞いてセインは水薬(ポーション)をシャーリーへ投与した。  流し込まれた液薬は喉を過ぎると霧散して身体にしみこんで行く。母の精気のない表情が徐々に色を取り戻し、瞳に明かりが射すとシャーリーはうっと息を詰まらせ、むせ始めた。 「げほっ、ごほっ、ごほっ」 「おっ、おかあさん!」 「酷い味……、水、水……ちょうだい……げほっ」  その言葉に、チタニアとナミィは一瞬固まったようにむせる母親を見た。  なんの反応も示さなかった母親が言葉を発してくれたのだ。それからナミィがすぐさま水をコップにいれて手渡した。 「ありがと、ナミィ」  受け取って、シャーリーはごくごくと嚥下音をさせてがぶ飲みする。お礼を言われたナミィは満面の笑みで母親に抱きついた。 「あまり慌てて飲むな。ゆっくりだ」  セインが低く落ち着いた声で指示するとシャーリーはコップから口を離して、大きく息を吐き出した。 「ありがとうございます。お医者様の言葉、きちんと聞こえておりました」 「俺は医者じゃない」  シャーリーは瞳を伏せて礼を述べ、小さく顎をひくようにお辞儀した。礼を言われなれていないセインが決まり悪そうに返事をして一歩引いた。とりあえず、薬の効果はきちんと出たらしい。一安心だった。  虚ろな表情で何を考えているのかもわかっていないようだったのに、きちんとこれまでの会話を理解していたというシャーリーの精神にもセインは安心したのだ。それだけの心根があればこの先のシンドロームも乗り越えていけるであろう。 「チタニア」  シャーリーが、固まってうつむいているチタニアに優しく声をかけた。  信じたかったけれど、未だに信じられなかった。  またあの母の声を聞けるなんて、夢のようだと感じていた。できることならこの素敵な夢が覚めないでほしい。だから、チタニアは前を向けない。母の顔をみると、夢から覚めそうで怖かったのだ。 「おいで」  開かれた掌にチタニアは飛びついた。熱いものが心の中からあふれ出し、もう止められない。赤ん坊のように泣きだして大声で母を求めた。熱さは教えてくれる。これは夢ではないんだよ――と。 「ご迷惑をおかけしました」  シャーリーはセインとヨナタンに侘び、娘達を優しく抱く。 「ずうずうしいお願いですが、もうひとつだけ聞いていただけませんか?」 「なんでしょうか」 「夫を……呼んできて欲しいのです」  ヨナタンはシャーリーの強い母の瞳に、すごいものだなと関心しながら、ゆっくりと確かに頷きを返す。  きっと、この家族はもう大丈夫だろう。  ヨナタンはセインにひとつ頷いて、教会へ向かうのであった――。    ********** 「きゃあああっ!!」  甲高い悲鳴に見張りのダークエルフが眠りから覚醒した。 「な、なんだなんだ!」  牢屋の中でアッシャが怯えて震えていた。どうも牢の奥に何かいるようだ。  見張りが牢屋を覗き込むと、一匹の毒蛇がアッシャに迫ろうとしている状態であった。 「た、たすけて!」  アッシャの悲鳴に見張りも若干混乱してしまう。しかし非常事態なのは確かだ。売り物の少女が毒蛇にやられたとあっては問題になる。 「この蛇どこから入りやがったんだ!?」  ここは地下室で窓もない。蛇が入り込んでくるはずもないのだが、現にそこに毒蛇が牙をむいているのだ。牢の奥にいる蛇は入り口からでは手が届かない。除去するには牢の中に入らざるを得ないだろう。 「嬢ちゃん、こっちに寄りな。ちょっと待ってろ」  アッシャを牢の入り口側へ誘導しながら、壁にかけてあったカギを引っつかみ、牢を開けると素早く中へ潜り込んだ。  そのまま奥の蛇へと接近していくところで、アッシャが動いた。牢の入り口に音を殺して駆けて牢から抜け出したのだ。  ダークエルフの見張りはそのまま蛇を短刀で切りつけようとして、蛇がぼんやりと輪郭を歪めているのに気が付いた。 「こいつぁ!? 幻惑魔法か!」  蛇に見えていたモノはアッシャが首に巻いていたネクタイだったのだ。アッシャが唯一使える魔法、幻惑魔法の<錯視>であった。精度がよくなく、対象に接近されるとすぐにばれてしまう程度のものだったがここから抜け出すには十分と思われた。  気が付いた見張りが振り向いた時はアッシャはもう地下から駆け上がるところだった。 「待ちやがれ、嬢ちゃんッ!」  その怒声を後ろに聞きながらアッシャは一階へと駆け上がる。  階段を上った先には左手に出口の大扉。扉のつくりから巨大な荷物などを搬入するための倉庫を利用して作った牢屋だったらしい。右手にはこれまた大きな檻が設置してあった。その中には大きな動物が異臭を漂わせて横たわっていたのだ。 「ウィシュプーシュ!」  ダレンがウィシュプーシュを捕まえていたのは事実だったらしい。檻の中にはウィシュプーシュの汚物が散乱していて衛生的も酷く臭いがたまらない。  後ろから男が迫ってくる。アッシャは咄嗟にどちらに逃げるか悩んだ。ドアに走るべきが正解のように思えたが、アッシャは咄嗟に壁にかかったウィシュプーシュの檻のカギをとって、ウィシュプーシュの檻を開放させたのだった。  檻が開いたことでウィシュプーシュは起き上がり、檻から這い出てくる。それと見張りの男が一階に上がってくるのは同時だった。 「ゴアァアァアァアアッ!!」  凄まじい鳴き声をあげて、充血した赤い目をしたウィシュプーシュが猛る。  セインの説明では獰猛ではないとのことだったが、どうやら捕まってダレンからまともな世話をされていなかったらしいこの個体は激昂していた。  巨体を振り回し、カギヅメを鋭く伸ばして暴れまわった。アッシャは建物の壁に張り付くようにそのまま出口へ逃げ出そうとじりじりと動く。急に動くものに動物は反応すると聞いたことがあったからだ。  逆に見張りの男が、アッシャとウィシュプーシュ、どちらを先に捕まえるべきか困惑していた。慌てながらも彼が取った行動は周囲に報せるという単純なものであった。 「だ、だれかきてくれぇっ! 脱走だぁぁっ!」  その声に、ウィシュプーシュが反応した。ダークエルフの見張りへ突撃するように襲い掛かっていく。  見張りは悲鳴を上げながらそのまま地下への階段を下って逃げる。  アッシャは隙をついて一気に出口の扉へ駆け出した! 「――ッ!」  アッシャが大扉を抜けるのと、脱走の声を聞いたダレンの日陰者(シェイドエルフ)が駆けつけるのは同時だった。  ドアを抜け出た先は日の光も差し込まないような路地裏であったが、どうも時刻は夕方付近らしい。夜には至っていない事は分かった。 「逃がすな! 場合によっては殺してもいい!」  出くわした日陰者(シェイドエルフ)があたりに号令を出す。どうも目の前の男一人だけではないようだ。  ここがどこなのかきちんと理解することは難しかったが、アッシャはこれまでの情報を整理する。――風呂に入れられる、あたりの風景、闇市に売られること、ウィシュプーシュからここはマルテカリ内で間違いないだろうと推測した。 (なんとか切り抜けられたら、セインダールが助けてくれる……!)  迫ってくる日陰者(シェイドエルフ)をどう切り抜けるか――。  悩む暇などなかった。背後にも気配を感じ振り向けば、赤い目の狂獣がこちらに向かってきていたのだ。  アッシャは咄嗟に開いた大扉の裏に潜り込むと間一髪、そこからウィシュプーシュが突撃する勢いで飛び出て行った。  正面に立っていた日陰者(シェイドエルフ)はそのまま突進を受けてハデに吹き飛ばされた。 「ゴァァァアアアァッ!!」  およそビーバーとは思えないような怒号の咆哮を上げ、ウィシュプーシュは周囲に集まってきたダレンの人間に敵意をぶつける。  二本足で立ち上がると、その大きさは三メートルは越えているであろう巨体であり、太い前足には鋭いカギヅメが光っている。丸太のような腕から繰り出されるぶん回しに巻き込まれたらひとたまりもないだろう。 「何の騒ぎですかッ!」  流石に騒ぎを聞き届けて支部長のシグマジャがやってきた。 「う、ウィシュプーシュが脱走をッ!」 「実行部隊に相手をさせなさい! 早く騒ぎを収めなくては騎士団に感づかれますよ!」  しかし、対応は遅かったようだ。ウィシュプーシュの狂いっぷりは異常で、目に付くものを辺り構わず叩きのめしていく。  あの紅い目を見れば誰が見ても普通ではないと分かる。  きっとダレンに何らかのモルモットにされていたのだろう。 「ごぁああぁぁッ!!」  太く地響きのような鳴き声は周囲にも聞こえたらしい、スラムに暮らすダレンとは無関係のダークエルフも騒ぎに驚愕し逃げ出し始めた。  アッシャもこの騒ぎに乗じて逃げることが出来ればなんとかなりそうだと、隠れていた大扉から飛び出した。  しかし、そのタイミングで実行部隊と呼ばれた覆面隊に鉢合わせしてしまったのだ。 「!! …………」  声を上げる間もなかった。覆面の男が一瞬にしてアッシャを<沈静>で打ちぬいていた。  またも同じ魔法で反抗の意思を奪われてその場にくずおれてしまうアッシャ。  悔しくてたまらないのに、もう脳がまともに働かないのだ。力が入らない体を屈強な筋肉を持った腕が抱えた。そのままアッシャは脱出失敗してしまったという事実を受け入れるしかなかった。遠くでウィシュプーシュの怒り狂う怒号が響いていた。自分もあのように猛り狂ってしまえるならこの男に噛み付いてもやるのに……体内のアドレナリンがさめていく感覚にアッシャはさめざめと泣く。 (やっぱり、私は……何にもできない……何も持ってないんだ……)    **********  夜勤であったため、本来は非番であるエドガーは未だに教会にいた。あの虹川党という連中が来てから、タンネンベルクの動きが活発になってしまったからだ。教会内でスラムへの重点警備と観察が行われるという配備を知り、エドガーは警備状態を把握しておこうと警備シフトを確認していた。  朝方に受けたヨナタンの警備への尋問に、怪しまれるような回答をしてしまったかもしれないとエドガーは気が気でなかったのだ。  もし、自分が下手を打ってしまえば、家族に被害が向く可能性がある。それだけがひたすらに恐ろしく、エドガーを盲目的に動かしていた。だから、シフト確認をしていた背後に誰かが近寄ってきていたことを気がつけずにいた。 「エドガー殿、こちらでしたか」  声をかけられ慌てて振り向いた。そこにいたのは虹川党のヨナタンだった。  金色のポニーテールを柔らかく振ってひとつお辞儀をする。エドガーにはそれが慇懃無礼に見えて少しだけ神経が逆立つ。  だが、そんな自分の不安定さを気取られないようになるべく平静さを取り繕うように、短く返答した。 「は。ヨナタン・ドナテリ殿でしたな。どうされました」 「いやあ、教会の警備員に聞くと、エドガー殿は非番と聞いたものでてっきりご自宅にいらっしゃると思っていたのですが、仕事熱心なのですね」 「じ、自宅っ……。そ、その……私に何か?」  ニコニコと笑顔を絶やすことがないこの魔法使いのヨナタンには、油断がならない。 「そのー、奥様が一刻も早く自宅に帰るようにとおっしゃっていたもので」 「な、何をっ!?」  妻のシャーリーは覆面の集団に飲まされた薬のせいで植物人間のようになってしまった。その妻から言伝(ことづて)を頼まれたというその言葉は信じがたく、同時にこのヨナタンという男に恐怖心がわいた。どこまで知っているのだ、と。 「早く戻っていただけると助かります。ほら、私の連れのダークエルフがいたでしょう。彼は自宅にお邪魔させてもらっていますので、娘さん二人が懸命にもてなしてくれて……」 「貴公ッ! まさかッ……」  ――まさか、このヨナタンはあの覆面の仲間だったのか。あのダークエルフは今自宅にいるだと? では、娘がもてなすというのは……!  娘二人にもついに組織の魔の手が迫ったのだと早とちりしてしまったエドガーはヨナタンを押しのけて駆け出した。一目散に自宅へと。  タンネンベルクがスラムへの警備網を強化したことに腹を立てたのかもしれない。なんと素早く隙のない手の打ちようだ。組織の強大さを思い知らされる。  教会を走り、メインストリートを駆け抜け、住宅地区の角に位置する自宅へ汗もぬぐわず、全力疾走で辿り着いた。  扉は閉まっている。気配を調べようと、家の外側の庭に意識を向けて窓ガラスが割られていることに気が付いた。  一気に血液が凍る。  もう、手遅れだったのだろうか。この玄関のドアを開けば、その向こうは見るも無残な地獄絵図と化していないだろうか。  恐ろしい。自分が死ぬことよりも何十倍も恐ろしい。  だが、開かなくてはならない。このドアを。  震える指先を取っ手にかけて、唾を飲んで、エドガーは思い切って扉を引いた……。 「チタニアッッッ!!」 「はい、お兄ちゃん。あーん!」 「あー! ナミィもー、ナミィもあーん! おにいちゃん、あーん!」  エドガーが踏み込んだ自宅では、テーブルに広がる料理の数々を前にダークエルフが娘二人からミートボールの乗ったスプーンを眼前に突き出され、口を開けるか戸惑っている状態だった。 「……えぇ?」  思わず素っ頓狂な声が出てしまい、エドガーは踏み込んだ姿勢のまま、固まった。  ダークエルフも、二人の娘もこちらを見て、時が止まるような静寂が訪れる。 「おかえりなさい」  右から声がして視線を動かしたエドガーは、夢を見ているのだと思ってしまった。  台所に、妻のシャーリーが立っていたのだ。 「……な、なにが……」  呆気にとられるエドガーの後ろから追いついたヨナタンが説明する。 「長いお勤めから、帰って来たということです」 「おかえりなさい」  もう一度、シャーリーの声を聞いて、エドガーは妻を強く抱いた。  もう二度と見ることが出来ないと思っていた家族の団欒が、彼を迎えたのである。  おかえりなさい、という言葉を受けて、エドガーは嗚咽にまみれてこう言った。 「……それはこっちのセリフだ……。おかえり、シャーリー……!」  あんぐりと開いたセインの口にスプーンがふたつ、嬉々として突っ込まれた。
/45ページ

最初のコメントを投稿しよう!

23人が本棚に入れています
本棚に追加