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悲劇の火花
夕闇のマルテカリは喧騒に包まれてた。教会騎士が破壊魔法の<火炎>を使って、スラムに火をつけて行く。すると、ウィシュプーシュは炎を避けるために火のない方角を探し、逃げ回る。
そうして徐々にウィシュプーシュを追い詰め、騎士団が包囲する作戦になっていた。
最悪なのは、それに巻き込まれた罪のないダークエルフたちである。
居所のないダークエルフ達が身を寄せ合って生活するマルテカリ・スラムは快適とはいえない環境である。
治安は悪いし、ゴミ溜まりの様な不潔な区画にされている。汚水処理、過酷な肉体労働、くたびれた家屋。それらがダークエルフの仕事であり、生活であり、家となっていた。それでも門の内側で生活できる事はかなりマシなのだ。
このマーチは北に行くほどダークエルフ排除の風潮が強くなるため、北のクエストランなどにはダークエルフは一人もいない。
しかし南に行くほど、ダークエルフ文化が残っており、ここマルテカリに置いては一応、街の中で生活することを許可されている。だが、その暮らしっぷりはエルフとの差別がはっきりとでていて、ダークエルフはいつも肩身の狭い思いをしてきた。
そんな彼らの住まいが集まるスラム街は、エルフ至上主義の者達からすればマルテカリの恥部のようにされており、教会にスラムの浄化とダークエルフの排除を申し立てる過激なエルフもいた。
浮雲状態のマルテカリに、教区長であるアルマールはいつも悩まされ、コミカルなかんばせに似合わぬ皺を寄せる。
アルマールはアルマールで、ダークエルフの完全排除は否定派なのである。このマルテカリは錬金術師の聖地とされるほど豊かな医療技術や薬物開発、ポーションの発展を進めた誉れある街なのだ。その知識と技術は、元々ダークエルフからもたらされた物である事をアルマールはきちんと認識していた。教区長はその立場でもってダークエルフの完全排除には否定を提示し続けていたのだ。
だが近頃はエルフの過激な意見や動きも見られるようになってきた。その一端は神官長であるタンネンベルクであっただろう。
タンネンベルクはエルフ至上主義者であり、ダークエルフを毛嫌いしていることはアルマールも知っていた。
だが、アルマールにはないその熱誠な心と堅気な態度は評価に値するものであった。
自分にないものを持っている人物を傍に置くことで、マルテカリはよく回っていくだろうと、アルマールは思っていたし、事実上手く回っていた時期もあったのだ。
それが崩れ始めたのは、都市伝説的に噂されるようになった秘密結社の話題が出回るころである。マルテカリで日夜行われる闇市により、ゆっくりとマルテカリは闇を抱えだした。
それをタンネンベルクは酷く気に病んだのだ。教会騎士団団長であり、神官長の彼はこのマルテカリを誇りに思っていたからだ。
「焼け! 焼毒するのだ! 清浄なるマルテカリを取り戻せ!」
ウィシュプーシュを討伐するという名目の元、兼ねてから邪魔に思っていたスラムを焼き払い、かつ、ダレン社なる秘密結社も燻り出せる一石二鳥なる作戦であった。
「ゴァアアアァァッ!!」
奥からは作戦通り追い詰められたウィシュプーシュが広場へと誘導されている。家に火をつけられ、泣き叫びながら煙に巻かれるダークエルフを無視して無慈悲な<火炎>魔法が辺りを燃やすのだった。
「いいぞ、もう少しでウィシュプーシュが広場までやってくる。捕縛の罠の準備は出来ているな!」
「はッ! いつでもいけます!」
「合図と共に、作動させろ!」
ウィシュプーシュを追い込む広場には魔法陣が描かれていた。<束縛>の魔法陣であり、対象の動きを封じ込め、磔にする魔法である。
火に攻め立てられて逃げた先には魔法陣があり、そのまま動き封じるという手はずだ。
ウィシュプーシュがスラムの狭い通路を暴れまわりながらついに広場までやってきた。
地面にはマナの光で描かれた魔法陣が静かに明滅を繰り返している。
ウィシュプーシュは警戒をしながらもその魔法陣の広場に一歩、踏み入ってきた。
「まだだ……。もう少し引き込め」
魔法陣に片足がかかる。まだ警戒心が強いらしい、中々魔法陣に入ってこない。
ウィシュプーシュが後方を振り返ると、火炎が踊り、黒煙が視界を汚す。もう引き返せないと狂獣は判断したのだろう。その足をさらに広場に進めた。
「今だッ! 起動せよ!!」
狭い路地、建物の上などに隠れていた教会騎士が一斉に巻物を開いて、マナを発動させた。
すると、ウィシュプーシュの足元から天へ一直線に魔法陣が閃光を放つ。
バチバチと激しいスパーク音がして、ウィシュプーシュの全身に電流のような光の蔦が絡み付いていくのだった。
「ゴァアアァァッ」
光の蔦で身動きを封じられ、強引に押さえつけられて絞め付けられる苦しみに、驚きの混じった鳴き声でウィシュプーシュは暴れだす。しかし、入念に用意された<束縛>の魔法陣はいかな狂獣のパワーでも振りきれるものではなかったようだ。
作戦通り、ウィシュプーシュはこれで完璧に捕縛できたと考えられた。
「よしッ!! ダレンを押さえるッ! 一番隊は我に続け。二番、三番はウィシュプーシュを封印するのだ」
指令を飛ばして業火のスラム街のゴミ掃除を開始するように、逃げ惑うダークエルフを逮捕する為動き出すタンネンベルク。
火の手から逃げ出したダークエルフ達は、表のマルテカリへの道を封鎖されていたため、次第にウィシュプーシュ同様、広場に誘導される形になった。
今や磔にされたウィシュプーシュ同様にスラムの広場に集まったダークエルフ達は、教会騎士団達に拘束されていく。
「わ、我々はウィシュプーシュとは無関係です! 無実です!」
一人のダークエルフの老人が騎士団に訴えたが、騎士団はその言葉を無視し、女も子供も関係なく捕縛していく。ダークエルフが教会に逮捕されてしまえば、無実であろうとろくに裁判も行われず罪人とされる。
捕まれば彼らの人生は、自由と切り離されてしまうのだ。だから、ダークエルフ達は必死に訴えていたが、騎士団の一人がそれを黙らせるため、剣を抜き振り上げた。
「黙れ! なんならここで処分していいのだぞ!」
鈍く光る剣の刃にダークエルフ達がすくみ、あたりが静まりだしたその時――。
空から一人の少女が降り立った。
黒い髪が風に泳ぎ、マントを靡かせて白い脚を覗かせた。その脚には包帯が巻かれていて怪我をした痕が見受けられる。
「……これが教会のやることか……」
静かな怒りに滲んだ呟きが業火に掻き消える。マーチの風に吹かれても揺れない火、強く灯った真っ赤な怒り――。
黒の魔女と呼ばれた、異世界から来た少女。――東雲ハナの烈火の如き怒りは、周りの炎を小さく見せるほどに大きかった。
ハナはすぐ目の前の騎士団に立ちふさがるように火炎が映る黒い眼光を向け、団長のタンネンベルクを捉えた。
「あんたが、ボスか」
「……ッ、むう……ッ」
なんという威圧だろう。タンネンベルクは、突如空から降り立った少女の凄味に、思わず一歩たじろいた。マナの奔流に舞い上がる黒髪は揺らめく炎に毛先を紅く閃かせ、まるで赤蛺蝶が舞い踊っているかのようである。
少女のブーツが力強く一歩、タンネンベルクに近づくたび、騎士団団長は嫌な汗が背中を流れ落ちていくのを感じる。
「さっ、作戦の邪魔をするな! 虹川党の異端者めがッ!!」
鞘から剣を抜き、威圧の怒号をぶつける。このタンネンベルクが、こんな小娘にプレッシャー負けをするなどありえないとプライドに賭けての叫びであった。
「作戦? 街を燃やすのが教会騎士の作戦なのか」
「これはダレンのあぶり出しであるッ!」
「寝ぼけたこと言ってンじゃねぇッ!!」
一喝が業炎よりも熱く、スラムに響いた。火炎のマナを吸い込んで、少女の怒りは爆発した。
「周りを見てみろッ!! 目を開けェッ!! お前が焼いているものを見ろっ!!」
考えるよりも、感情に身を任せる――。ハナはそう決めたから、この状況でただ、あふれる感情に乗っかった。怒り火に燃える少女は、まさに『火花』。
目の前の騎士団に叱咤し、ふざけたエルフを殴るような言葉で。
「これがお前らの誇りなのかッ!!」
空気を震わせる一喝が、確かな力で何かを動かす。
「黙れ、ここはイヒャリテではない。マルテカリである! お前の出る幕ではない!」
「このバッジがあるから、言ってンじゃねぇ」
ハナは首元のイヒャリテ教会のバッジを右手で握り、隠すようにしてタンネンベルクを睨みつける。
「イヒャリテもマルテカリもない。エルフもダークエルフもない。この地に立つ人として、あたしはあんたに言ってんだ!」
「女が生意気にッ!」
タンネンベルクの蔑みの言葉がハナの言葉に噛み付くように重なると、ハナは軽く顎を引き、前髪を落とした。表情が暗く隠れ、肩が震える。
「……それもだ」
「何ィ?」
「あたしの事を『女』と括ったな。お前は自分の目がどれだけ隔たっているか、自覚していないんだッ!」
首もとのバッジを押さえていた手で人差し指を突きつけて、長身のエルフを指摘するハナ。タンネンベルクはこの無礼千万の女にいよいよ眉を吊り上げてピクピクと血管を浮かび上がらせる。
「私は常に厳格であり、正義のために生きている! 侮辱する事は……許さん……!」
「同じなんだよ。あたしにケンカ売ってきたチンピラと、同じ目だ。女がでかい顔してんじゃねえって目だ」
「きっさまぁッ!!」
タンネンベルクの堪忍袋の緒が切れた。両手で握った剣を振り上げてハナに向かって間合いを詰めるために駆け込んでくる。
しかしながら、ハナはとっくの昔にキレていた。罪のないダークエルフの家を焼いたこの男を、ぶちのめしたくてしょうがなかった。
ハナも同様にタンネンベルクを迎え撃つ。低く構え、右手を強く握った。左足を引いて右足を軽く前に出す。
刃の射程内に入ったとき、タンネンベルクが紫電一閃、袈裟斬りに振り下ろす。先に動いたタンネンベルクが体格的にも有利と思われた中、ハナはその細い身体を折り曲げるように小さくしながら剣が振り下ろされる直前に、懐に潜り込んでいたのだ。
両手を振り上げ長剣で切りかかる上にその大きな身長から生み出されるリーチはタンネンベルクが上であった。しかし、その分内側の攻撃範囲は疎かであるといえる。油断が生んだ隙――。
――小回りとスピードはハナが勝っていた。『後の先』を手にした黒髪がタンネンベルクの剣よりも艶めかしく光を放つ。
鎧を着込んだタンネンベルクは柔軟性を欠いていたのもあるだろう。軽く風に乗って駆けたハナのスピードに一瞬、標的を見失った。剣を振り下ろした刹那、腹の下あたりで蹲るようにしていたハナを見つけたとき、ハナの首元に光っていたバッジがそこにない事に気が付いた。
「ふっ」
息を一瞬止めたハナが気合を右手に込め、折りたたんだ身体をバネが跳ねるように勢い良く伸ばし、タンネンベルクの突き出された顎を目掛けて、全身で跳ぶ電光石火のアッパーカットを打ち込んだ。
バキィ――ッ!!
華麗に舞い上がった火花は、重い一撃を見事にヒットさせていた。その様はあたりの騎士団やダークエルフが思わず息を呑む衝撃的な打ち上げ花火となる。
悲鳴もなく、タンネンベルクはその一撃で頭の中が真っ白になり体の自由が利かなくなりながら、後方に倒れこんでいた。
ハナがタンネンベルクを見下ろしながら、殴りあげた右手を開くと、その中に虹川党のバッジがあった。
ハナがケンカでよく使う方法で、何かを握りながら拳を打ち出すと、その威力を高めることができたため、バッジを利用したのだ。普段のケンカの時はよく消しゴムを利用していた。
それに加えて<風乗り>の能力が加わった跳ね上げはつむじ風のように素早くハナのアッパーを放たせた。アッパーカットは威力うんぬんではなく、顎を打ち、相手の脳をシェイクさせる効果がなにより大きい。
完全に舐めてかかっていた相手から、一瞬で放たれた攻撃は混乱に拍車をかけてタンネンベルクを襲ったのである。
「どうだ。女に殴られた気分は」
「う、が……」
「あんたの誇りは地についた」
ハナの言葉に、タンネンベルクのみならず、ダークエルフを捕まえていた騎士団員達も沈黙した。
『同じ地に立つ、人』という言葉を改めて教会のエルフ達は汲み取ったのだ。そして、もういちど自分達が何を焼いているのか周囲を見回し、心に確認する。
捕らえたダークエルフは、赤子を抱いた女性、年老いた老人、火傷をした少女、子を庇う父親……。
騎士達は一気に士気を低下させていく。
きつく捕まえていたダークエルフの拘束を手放し、抜いていた剣を鞘に戻す。
もう、ダークエルフを押さえ込む空気ではなかった。明確に、これは違うと、彼ら自身の心が言うのだ。教会騎士の誇りは、こんなものではないと、ひとり、またひとりとダークエルフから身を引いていく。
「ぐう、うう……。お前達、何をしている……! 惑わされるな、こいつはゴズウェーの仲間なのだ! 虹川党のメンバーを見ただろう!!」
朦朧とする意識を立て直しながら、タンネンベルクは騎士団に叫ぶ。騎士団員達は揺れる。誓いと誇りの居場所を探して……。
「もう一度だけ、お願いする。自分の目で、ゴズウェーと呼ぶあの人たちを見てくれ」
ハナの、ただただ切実な願いが言葉になって辺りに響く。
「これまでこの人たちと一緒にマルテカリで過ごして、居心地が悪いって思ってきたはずだ。でもそんなの当たり前じゃんか。私だって良くわかんない人と一緒にいたら居心地が悪くなる。私たち虹川党がマルテカリの教会に来たときもそう感じたはずだ。御互い様だと思う」
思えばハナも高校デビューのとき、初めてのクラスメート達の中で居心地の悪さを感じていた。これからどう付き合っていけばいいのかと神経をすり減らしてストレスを感じて、環境に怯えた。
そして出した答えは、相手を知らなきゃ、居心地なんか良くならないという事であった。
だから、彼女は勇気を絞ってクラスメートに声をかけた。その結果は不良のレッテルからくる拒否の視線であったが。
ダークエルフをゴズウェーと見る限り、エルフはいつまでもこの街を居心地良くできはしない。不良を教室から追い出せば平穏が来るのは間違いないかもしれない。でもその追い出した不良は本当に不良だったのか?
相手を知らずに、拒否することこそ、モノクロ世界への入り口に他ならない。
人となりは、白と黒だけではないのだ。
「雑多な色の人となりを、知ってほしい」
誰もがハナの言葉に戸惑う。そんな沈黙の広場に、ひとつ男の声が上がった。
「私からも、お願いします」
それは、セイン達が救ったエドガーだった。騒ぎを聞きつけ、封鎖を超えてここまでやってきたのだろう。
「エドガー!?」
ハナはその人物を知らなかったが、タンネンベルクは酷く驚いていた。彼はエドガーを騎士団の誰よりも認めていたからだ。真面目で実直な男であり、タンネンベルクはエドガーを部下ながらに人として白眉であると評価していたのだ。そのエドガーが、頭を下げハナを支援していた。
「タンネンベルク様。私はダレンと繋がっておりました。家族を人質にとられていたためです。ですが、虹川党のダークエルフが妻を救ってくれた。彼らは、断じてゴズウェーなどではありません。尊敬すべき、友人です」
その告白にタンネンベルクは消沈した。
最も認めていた部下の危機に気がついてもやれていなかったのかと。それほどに、自分の目は節穴だったと今度こそ自覚したのだ。そしてその彼を救った人物がダークエルフであることは、タンネンベルクが作った境界線を崩す決定打になってしまった。
「そこに捕らえているものはダレンではありません。私はダレンに利用されながらも、ダレンの構成員をリストアップしてきました。ダレンの捕縛に助力させてください。その上で、私は私の罪を償います」
事態はこの言葉で一応の幕引きを見せた。
騎士団の一人が、火傷をしたダークエルフに駆け寄って回復魔法をかけてやってから、我に返った騎士団員はダークエルフを救助することと鎮火に動き出した。
タンネンベルクは、憑き物が落ちたように静かにたたずんでスラムの救助に走り回る部下を見ていた。
自分が指示などせずとも、彼らは彼らの意思で、瞳で、マルテカリのために働き出したのだ。
ハナもその救助に共になって手伝いだした。アッシャがいるはずだと思っていたハナであったが、スラムの中でいくら名前を呼び続けてもアッシャは見つからなかった。
そんなハナにダークエルフの老人が声をかけて来た。
「どなたか、お探しなのですか?」
「あ、うん。ダークエルフの女の子なんだ。多分、私の学校の制服を着てると思うんだけど……」
「学校の制服……? それかどうかは分かりませんが、何か奇妙な衣服を纏った少女が覆面の男たちに担がれて行くのを見ました」
覆面の連中……。ハナたちを宿屋で誘拐したあの集団で間違いないだろう。
なんということだ――。すれ違いになってしまった事にハナは思わず「くそっ」と悪態をついてしまう。
ロカクから妹を助けてくれとしっかりお願いをされたというのに、これでは約束を果たせない。
「アッシャ……。どこにいるんだ……」
思いついたのは下水道だ。元々ロカクと下水道からダレンの闇市に入り込む作戦だった。ハナが下水道に向かおうと思い立った時、広場がなにやら騒がしくなっていることに気がついて様子を見に戻ると、磔にしたウィシュプーシュの前で騎士たちがうろたえていた。
タンネンベルクが魔法陣の管理を任せていた二番隊の隊長に確認するが、隊長も首を振るばかりだった。
「分かりません。急に弱り始めて、もう虫の息です。おそらくあと一時間ともたないでしょう」
その言葉で大体のことは察することができた。
どうやら捕まえたウィシュプーシュの命が風前の灯のようだ。横たわっている巨獣は舌を紫にして口の端から垂らし、苦しそうに息を漏らしている。
「回復魔法はどうだ」
「試してみます」
騎士団の一人が恐る恐るだが弱りきったウィシュプーシュに手をかざして魔法をかけるが、ウィシュプーシュは良くなる様子が見受けられなかった。代謝が上手く行っていないのか、ウィシュプーシュの肛門からは黒く淀んだ血が噴き出し、見ていられない。
「……どうもこのウィシュプーシュは度重なる実験のあとがあります。肉体的にも精神的にも、限界だったのではないでしょうか」
「……どうしようもないか」
なぜだか、ハナはこのウィシュプーシュから目が離せなくなった。
ダレンに攫われ、家族と引き裂かれたウィシュプーシュの子供……。さっきまで暴れまわっていたとは思えないほどに、弱々しい息で濁った瞳を潤ませて魔法陣の中で横たわっている。
「助けられないの?」
ハナはタンネンベルクに訊ねた。タンネンベルクは黙ったまま首を横に振り、溜息を吐き出す。
「じゃあ、せめて、あの魔法陣は解除してやれないか」
「……そうだな」
タンネンベルクが部下に指示して、魔法陣を解除すると、ウィシュプーシュに絡み付いていた光の蔦が粒子となって消え行き、ウィシュプーシュはぐったりと地面に体を預けた。
醜く汚れた毛並み、充血した淀んだ目、臭い息……。死を目前にした動物の無残な姿だった。
ハナはそこにそっと近づいていく。
「おい、まだ危険かもしれんぞ」
タンネンベルクの注意の声に、ハナは首を振った。そして、そのままウィシュプーシュの身体に手を当てて、毛並みを撫ででやる。
「…………」
ごうごうと、喉の奥で呼吸が弱くなっているのが聞こえる。紅い瞳からは黒い涙が流れ出ていた。
家族が、街の門の外でお前を待っているんだぞと、ハナは心で呟いた。
だが、もう――。
このウィシュプーシュは起き上がる力はない。
もう、この子は、家族に会えないのだ。そして、門の内側の知らない世界で、独りで死んでいく。
それが――ハナには堪らない。――堪らないのだ。
この日、マルテカリのスラムで、ハナは一つの悲劇を見届けるのであった――。
**********
虹川党の追っ手を振り切った支部長のシグマジャは、やっとの思いで下水道を抜けきり、マルテカリの門の外へと剥い出た。あとはこのまま隠れ小屋に捕らえている黒の魔女を回収し、ダレン本部までいけばいいだけだ。
だが、下水道から出てきたシグマジャを何者かが出迎えた。
「支部長、お一人ですか」
それはダレンで雇った下っ端のダークエルフの若者だった。名前をロカクという。中々隠密技術が高かったために勧誘し一員に加えたのだ。
「こんなところで何をしているのですか。……それよりも黒の魔女を回収します。手伝いなさい」
「は。随分慌てていらっしゃいますが、何かあったのですか?」
シグマジャが小屋のほうへ歩いていくのについて行きながら、ロカクはシグマジャに低く訊ねた。
「すぐそこまで虹川党の追っ手が来ているんですよ。お陰で実行部隊も人質の娘も失いました」
「へえ……。それは……」
ほくそ笑むロカクに、シグマジャは気がつけなかったようだ。今や気持ちは黒の魔女にしか向いていないらしい。
虹川党が上手く人質の娘……即ちアッシャを救ってくれたのだと分かったロカクは、内心ハナに感謝していた。そして、ハナの言葉を思い出す。いや、正確にはハナの拳の一撃を思い出していた。
(見ていろ。俺だってやってみせるぜ。ダレン壊滅のために、このシグマジャをヤる……!)
裏手に握り締めたナイフが震える。
ロカクは悪事を色々働いてきたが人を殺したことはなかった。しかし、今こそがダレンから抜け出すためのチャンスであり、また悪を討つべきであるとも思えたのだ。
やる、と心に決めたとき、ナイフをしっかりと握り締めてシグマジャの背中に突き立てるため襲い掛かった。
ずぶり、と肉を裂き、刃が埋め込まれていく感触を手で感じ取ったロカクは、冷や汗を垂らしながらもやってのけたと笑った。
確かに、不意打ちは成功したかに見えた。ナイフが深々と突き刺さって、シグマジャに致命傷を与えたと感じたからだ。
しかし、シグマジャはそのままくるりと振り返って、何事もなかったかのような表情を見せていた。
「何の真似ですか?」
白い表情はまるでマネキンのごとく何の感情も浮かべていない。痛みすら感じていないようである。鼻にかけた黒いメガネが妙に光を反射して見えた。
「……な、なんで……効いていないのか? ナイフが根本まで刺さっているのに……」
「何の真似かと聞いているのだ、畜生めがぁッ!」
無表情だった支部長は激しい怒りと共に鬼の形相に切り替わり、ロカクを思い切り蹴り飛ばした。
「うげぇっ」
凄まじい一撃だった。たった一発の蹴りだけで、肋骨が数本折れてしまったようだ。シグマジャの履いているブーツがぼんやりと発光していることに気がついて、なんらかの符呪がされた魔法の靴なのだと痛みに顔をしかめながらロカクは理解した。
「げほっ、うぎぎ……! な、なんで……くそ……」
「私はこれでもダレンの支部長です。貴様程度に、どうこうできると思ったか、カスめッ!!」
そう言ってもう一撃、腹に蹴りをぶちこみ、シグマジャがロカクを踏みにじる。ますます靴の光が強くなり、のしかかる足の重さが何倍にも上がっていくように感じた。
「うごっ!!」
「何のつもりでこんな真似をしました? 答えなさい」
ロカクを踏みつけたまま、丸いサンクラスを闇に染め、見下ろしてくる。怒りの形相はまたも人形のように無表情に切り替わっていたのが不気味さを加速させる。
「お、おれは……もう、ダレンなんぞ、辞めてやるんだ……。て、てめーみてえな悪党は、い、生かしちゃおけねえ……」
「……下らない。そんな理由で私に歯向かうとは……どこまでも愚かですね」
ぐりりと踏みつけた足に力を込めて、ロカクの骨を軋ませる。苦悶の声で叫ぶロカクだったが、シグマジャは恐ろしく無表情にロカクを踏み潰す。どうやら、このブーツに符呪されている魔法は重力を操っているようだとロカクは推理した。魔法の靴で踏み潰され、「げぼ」と吐血してしまう。どうやら内臓を破壊されてしまったようだ。
「ひ、ひひ……その愚かなおれに、あんたはいっぱい食わされてんだぜ……」
「何? どういうことです」
「あんたの、大事にしてた黒の魔女は……もう、あの小屋には、い、いねーぜ……ざ、ざまみろ……」
「なんだとォッ!?」
シグマジャの顔に慌てた表情が浮かんで、ロカクはしてやったりと痛々しく笑ってみせる。
「気になるなら、あの小屋に行って見りゃ良いさ……。けけけ……」
「この蛆虫野郎がぁぁぁッ!!」
思い切りロカクの横っ腹を蹴っ飛ばし、ロカクの骨にトドメ刺す。ボギッと嫌な音がした。
シグマジャは背中に刺さったナイフを自らで抜き、投げ捨て歯噛みした。
このダークエルフの言葉が本当ならば、大失態もいいところだ。黒の魔女があればこそ、何よりも優先される実績となるはずであったが、それを失ってしまえば自分にあるのは過失のみ。黒の魔女が現在どうなっているのかを把握しなくてはならない。
ロカクはピクピクと痙攣し、まだ息はあるようだった。シグマジャはトドメを刺してやりたい気分であったが、何より優先すべきは黒の魔女だ。ロカクなどに構っている場合ではない。
露骨な舌打ちして、隠れ小屋へ全力で駆け出していく。
後にはボロボロのロカクだけがそこに残った――。
(あーあ……ちくしょ……かっこ悪いな。ここまでか……)
ロカクは結局ダレンを打ち倒すという目標を達成できず、ボコボコにやられるだけになってしまった自分に情けなくて笑いすら沸いてきそうだった。
(ファナ……すまん。アッシャを頼む……)
アッシャと最期に会いたかった。約束が果たせずに済まないという気持ちはあれど、喰らったところがまずかったらしい。ロカクはもうそう長くないだろうと何となく感じ、ゆっくりと瞼を下ろした。
「お兄ちゃん!」
アッシャの声が耳に響く。走馬灯が作る幻聴だろうか。ああ――ふがいない兄を許してく……。
「ぶぇ」
何かが口に突っ込まれるを感じて、無様な声を上げてロカクは瞼を持ち上げた。
「おにいちゃん!!」
「ぶぁっじゃ……」
口に突っ込まれたもののせいでまともに名前を呼ぶことも出来ない。どうやらポーションを無理やり口に突っ込まれていたらしい。
「おにいちゃん、死なないでぇっ!!」
「あぼぼっがぼぼぼっ」
アッシャが次々にポーションの瓶を口に詰め込ませようとしてくるのでロカクは水薬でおぼれそうになって顔を真っ青にしてもがきだした。
「あ、アッシャ落ち着きなさい。も、もう大丈夫そうですから」
傍で汗を垂らしているエルフの男性がアッシャをなだめてくれたお陰で、なんとかおぼれずに済みそうだ。
流し込まれたポーションはライフポーションだったのだろう。折れていた骨がみしみしと痛みを伴いながらも修復されていく感覚がある。効果が早く、そして高い回復性にかなり上級の薬だと感心した。
「あ、アッシャ……無事だったんだな……」
「お兄ちゃんっ!!」
アッシャが首に抱きついてくる。少し痛かった。だが久しぶりの妹の声と臭いに、ロカクは安らぎを感じ、アッシャの顔をなでてあげることが出来た。全然変わってない。可愛らしい、この世にたった一人の家族だ。
「ごめんな、俺、お前になんもしてやれなかった……」
「……もういいよ……お兄ちゃんがいるだけで、いいんだよぉ……」
セインとヨナタンは、兄妹の再会にひとまずは一息落ち着いた。しかし感動の再会中ではあるが、逃げ出したシグマジャとハナがどうしているのか、未だ分かっていない。
このロカクというアッシャの兄に色々と聞く必要があるため、セインはアッシャに断りを入れて問いただした。
「逃げたダレンの支部長がいたはずだ。それから黒髪のファナ。何か知らないか」
「支部長は……逃げられた。ファナは……ああ、そうか。あんたがセインで、そっちがヨナタンだな……ファナから話を聞かされてる」
「えっ、ファナさんと会ったんですね!?」
「ああ、今頃はマルテカリのスラムに戻ってるはずだぜ……」
その言葉でセインが慌てて踵を返す。
「ヨナタン、ここは任せるッ!!」
「ファナさんを頼みますッ!」
ここまで来るのすら全力疾走をしたと言うのに、セインはそれでも走る速度を落とすことなく、夢中で駆けた。
もうすぐ日が暮れる。
ハナと一日会えていない。誘拐されて、どうしているのか不安が膨らむ。なぜ運命が悪戯をするようにすれ違うのだ。
「ファナ……! ファナ……っ!! ファナ……ッッ!!」
彼女に何かあれば、自分は今度こそ、生きていけなくなる。セインにとって、黒髪の少女はどうしようもなく大きな存在になっていた。
抱きしめたい。無事な彼女を力強く。
自分の傍から離したくない。もう二度と。
肉体疲労も忘れるほど、セインダールは想う。たった一人の少女を。もうセインの心の中には、黒髪の少女しかいなかった――。
夜がやってきた。
三ツ月の、青白い明かりが降り注ぐ。
どこか遠くでウィシュプーシュの悲しげな鳴き声が聞こえた気がした――。
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