黄土の沼

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黄土の沼

 朝はずいぶんと心地よい風が吹いていたように思うのに、昼を過ぎてから湿地帯に入り込んだ頃には風などまったく吹いていないように感じられた。  じめじめとした不快指数の高い湿地帯の空気が纏わりつくようにハナの首筋を舐めていく。 「…………」  虹川党一行はキャンプ地から東へ歩き、うっそうとした湿地帯を歩いている最中である。この湿地帯を暫く歩くとたどり着くとされる沼地に群生しているらしいイホテルートを追って黙々と歩を進めていた。  昨日は道すがらに薬草などを採取しながらであったが、この辺りまで来ると人影もないし、道も道と呼べないものになっている。  ダレンが襲い掛かってくる可能性も考えると、目的にだけ集中したほうがいいためである。  セインを先頭に、アッシャ、ハナと続き、殿(しんがり)はヨナタンという隊列でぬかるみの中を歩いていく。  時折、虫が「ブゥン」と羽音を立てて迫ってくるような事もあり、正直なところ一行の精神面は快適とは言えない状況である。そのためか、四人とも口数がすっかり減ってしまっていた。  しかし、ハナにとって、口数を減らす要因はそれだけではない。  朝方アッシャから告げられた情報――。セインダール・ウィドリャンタス・ラーメンの姓、ラーメンは『幽霊苗字』であるという言葉がハナの脳内で反芻していたのだ。 「ラーメンと云うのは、幽霊苗字なんです。ダークエルフにとっては」 「どういう意味なの?」  アッシャがセインの目をはばかってハナにそっと教えてくれてた事実はハナを混乱させることになったのだが、喋っているアッシャ自身も半ば困惑しているようであった。 「ラーメンと云うのはエルフ語で『冠する者』と云う意味です。あ、ちなみに私のヨウパクと云う姓は『岩清水』という意味です」  この世界の名前の作りはファーストネーム・セカンドネーム・ファミリーネームという構成になっているらしい。  ファーストネームは父親が名づけた名前、セカンドネームは母親の名づけた名前、そして(ファミリーネーム)である。  セインダールは父親が付けた名前、ウィドリャンタスは母親が付けた名前ということになる。  加えて、この世界の名前というものは現代日本の名前よりもかなり重要なくくりになっているようで、改名は絶対に許されない。そのため、親は子供の名前を出産の前には必ず教会に提出しなくてはならない。また教会でも厳重な審査を受けてやっと名前は決定するのである。名前には魔法がかけられ、記号化される。同姓同名の人物でも魔法で刻まれた(あざな)により、唯一無二の存在と定義付けされるのだ。  そんな中で偽名というものはまず存在しないし、(あざな)によってすぐに偽名と判別できてしまうのだ。 「ラーメンの意味は冠する者? それがどうして幽霊苗字なの?」 「……ラーメンという苗字自体は、この世界に何人もいます。そういう意味では、『幽霊苗字』とは言えないかもしれませんが……セインダールにその苗字が付くことがありえないんです」 「何人もいるって……? じゃ、なんでセインだとありえないの?」  ハナのその疑問にアッシャはハナの耳元で答えた。 「ラーメンは()()()()で『冠する者』なんです」  アッシャのその説明に、ハナはすぐに意味が飲み込めなかったが、一呼吸の後、ハッとした。  セインはダークエルフだ。エルフ語で苗字が付く事がおかしいと言っているのだ。  つまり、ありえない苗字。漆黒の肌のセインダールにとって、ラーメンは幽霊苗字であるというわけだ。  ダークエルフであるセインにエルフの苗字が付いているという事から推測するに、ひょっとしたら、エルフとダークエルフの混血なのではないかとも考えられた。しかし、アッシャはその可能性は低いと言った。  エルフとダークエルフの混血、俗に言う『ハーフエルフ』であるが、現在のマーチでは禁忌とされている存在であり、『日陰者(シェイドエルフ)』等と呼ばれている。彼らは、ほとんどが出産の前に『処分』される。なんらかの理由で産み落とされた日陰者(シェイドエルフ)も捨て子とされて名前も与えられずにならず者として生きていく事が多い。  もし、ハーフエルフを身ごもったことが発覚した場合は、両親も、そのハーフの子供も社会的に処分されてしまうため、まず、異種族間の出産はありえないものであった。  また、ダークエルフの女性がエルフから強姦されて身ごもるという事もあるが、こちらも同様にダークエルフの女性が出産前に自害することが多いのだという。自害をしない場合はお腹の中の子供を中絶するのだそうだ。  ハナにとっては衝撃的な異種間の妊娠事情に言葉もでなかった。  知れば知るほど、生々しい種族間の溝と確執を実感してしまう。セインもヨナタンもそういった話をあまりハナにはしてこなかった。ハナが女性であるために気遣っていたのかもしれないが、ハナとしては知っておくべき事であると、この問題に気を向けることが出来たアッシャに感謝した。やはり、同姓の仲間は必要だと考えられた。  こんな世界だ。美しいものばかりではないのは、自分の世界も同様である。  ともあれ、セインの姓の話であるが、つまりダークエルフの姓にエルフ語が使われることは社会上ありえないとのことだった。  以前セインが語ってくれた両親の話の中に、自分は名前を与えられた上で捨てられたのだと教えてもらったことがあった。  その姓がエルフ語なのであれば、ひょっとするとセインはダークエルフではなく、ハーフエルフなのかもしれない。ハーフエルフが禁忌であるとされる世の中で、その可能性を提示したハナの言葉に、アッシャは『それはない』と否定はしたが、もしかしたら、セインダールは生粋のダークエルフであってほしいという願いから出た希望的な否定だったのかもしれない。  ともあれ、セインダール・ウィドリャンタス・ラーメンの姓の話題は、自然と二人の間でタブーになった。  どれだけ考えても、答えは出ないし、セイン本人ですら産みの親の事を知らないのだから。それになにより、セインのためにもこの話は掘り下げるべきではないと思ったのだ。 (でも、セインだって……自分の姓がエルフ語であることは分かってるはずだよな)  前を歩くセインの背中を見ながらハナは彼を想った。  ――育ての親であるダークエルフの医者のガイデン両親の事は、誇りに思っている様であったから、自分も純潔のダークエルフでいたいと考えているのかも知れない。  ()()()()()()()()()()の姓が嫌いだと言ったセインの本心がちらりと見えた気がした。 (……だったら、私に何ができるんだろう)  セインの大きな背中に背負う暗い影が、湿地帯の空気に混じって彼を(さいな)んでいるようにも思えてしまう。セインがこれまでどういう苦しみを背負って生きてきたのか、ハナには理解できない。でも、これからは違う。セインの痛みや苦しみを少しだけでも庇ってあげたい。背負いたい。共にありたいと願うから。 (……セインの笑顔が見れない世界なんて嫌なんだ――)  虹川党の活動が彼の為になるのなら、ハナはアイドルでもなんでもやってやると気を入れなおした。  ――いつか――。  いつか、セインがその姓の意味を知るときに、傍にいたい。異世界にやってきた自分を、何も分からずに恐れに潰れそうになっていた自分を支えてくれたセインと同様に、彼の土台を揺るがすような事があるのなら、その時は彼を抱きしめていたい。  ハナはそんな風に想う。大きな背中に隠れている、彼の暗闇を晴らしてやるのは自分でありたい。 「……このあたりだな……」  セインが足を止めて、周囲を確認し始めた。  ここがイホテルートの生えているという沼地なのだろうか。  前方には泥の水溜りといった淀んだ小さな沼がぽつんぽつんと点在するようにある。  周囲には多数の木々が生えていて、足元にはシダ系に似た植物やハナの腰ほどもある草がうっそうと生えていたりもした。イホテの神像が握っていたような草も生えているが、なんとも特徴がなくまさに雑草といった様子であった。  ヨナタンも周囲を見回し、眉をしかめてセインに問い詰める。 「本当にその情報は正しいんですか? 見たところ、めぼしい植物は見当たらないように思えますが」 「そうだろうな。イホテルートは『めぼしい植物』ではないからな」  セインがそういいながら、腰のカバンからなにやら瓶を取り出した。中身は真っ白の液体で牛乳のようにも見えたがもちろんそうではないだろう。 「めぼしい植物ではない? どういう事?」  ハナもセインの言葉に理解が追いつかずに訊ねたのだが、セインが白い液体の瓶の蓋を開けたとき、すごい刺激臭がして「うっ」と息を止めるほどだった。 「なにそれー?」  ハナが鼻を抓みながら、セインから少しばかり身を引く。ヨナタンもそうだったし、鼻の効くアッシャは少し眩暈すらおこしかけているようだった。ふらふらとハナの傍で同様に鼻をつまんでいる。 「これは早朝俺が作った除草剤だ。昨日の夜、オルゴイコルコイの毒素を抽出して作った。ちょっとばかり臭いが人体には影響が無いから安心しろ」 「……でも、アッシャはクラクラしてるけど」 「息ができません……」  青い顔のアッシャが傍に木の幹を支えにしてようやく立っている様で、辛そうだった。 「少しだけ我慢しろ。イホテルートを探す」  そう言って、セインがオルゴイコルコイの除草剤を水で薄めてから周囲の草に撒く。  すると、緑の雑草が見る見る茶色に変色してから溶けるように崩れ落ちていく。凄い速さで効果を発揮するのでハナは驚きながらも思わず不安でセインに声をかける。 「ちょ、ちょっと! いいのか、枯らして? イホテルートも枯れちゃうんじゃ……」 「イホテルートは枯れない」 「えっ?」  かつて大災害後の大地から緑が失われた世界にて、イホテが(もたら)した異世界の草は、土が死んでいようとも青々と育ち、毒の雨が降ろうと枯れなかったという。  つまり、除草剤を撒いても残っている雑草こそ、イホテルートなのだ。  ――と、セインは語った。  イホテルートとは――。現在この世界に生えているあらゆる草花から極稀に生まれる超生命力を持った枯れない草の事を指すのだそうだ。  つまり、イホテルートの種類は草花の数だけあり、形状が定まらない。だから、イホテの神像が握っているイホテルートは雑草なのだという。 「ダークエルフの古代からの秘術の中に蠱毒(こどく)というものがある。ツボの中に無数の虫を詰めて放置し、生き残った一匹には特異なマナが宿るとされている。このイホテルートも似たようなものだ。多数の植物が群生するマルテカリの湿地帯で強力な生命力をもった草花が百年に一度生えるという。それが『イホテルート』の称号を得るんだ」 「イホテルートは植物の名前じゃなくて、称号だったんだ」 「かつての神話の時はどうだったか知らんが、現状のマルテカリ・アカデミーではそういう解釈になってる。あとはこの除草剤の毒に耐え抜いた植物があれば、それこそがイホテルートってわけだが……」  セインが除草剤を撒きながら、あたりの植物を枯らしていく。今のところこの除草剤に打ち勝つ草は見当たらない。 「……本当にそんな植物があるんですかね」  ヨナタンは半信半疑だ。元々、こういった分野にはヨナタンの食指が動かないらしくセインの話を疑っているようである。ハナとしてもそんな植物がありえるのかは不明なところだが、自分の常識の外であるこの世界では何があってもおかしくない。  周囲に刺激臭が満ちていく中、沼を回っては除草を行う。  三つ目の沼の周囲に除草剤を撒いたころ、セインの動きが止まった。 「……ヨナタン」  声をかけられたヨナタンがはっとして、周囲を警戒し始めた。  急な空気の変化にアッシャとハナも身構える。  ハナとアッシャを庇うようにヨナタンとセインが背中合わせに陣形を組み、周囲の木々の隙間へ意識を向けていた。 「<生命探知>」  セインの瞳にマナの力が集まって魔法が発動する。今のセインの視線には生命の動きがサーモグラフィーのように感じ取ることが出来る。  一行の周囲には数匹の獣が集まってきていたのである。 「何かいるのか?」  ハナが声を低くして、訊ねると、セインは「三体」と短く答えた。  それにヨナタンが小さく頷いて、指先を青く輝かせた。魔法をいつでも放てるようにマナを充填しているのだろう。セインもそっと背中に担いでいた弓を構えた。 「二匹、任せていいか」 「三匹でも構いませんが?」  ハナもいざと云うときの為にアッシャを庇うように拳を作って体勢を整えた。  耳を澄まして気配を察知しようと意識を拡大させると、ガサリと右前方から聞こえた。さっと視線を動かすと人間の子供くらいの大きさの黒い影が横切るのが見えた。 「……右に一匹いる」 「……左から二匹だ。動きが早い」  アッシャは身を堅くするばかりであったが、ハナの視線の動きを追っていて迫ってくる何者かの正体に感づいた。  茂った草木の隙間から見えたのはゲッコウと呼ばれる一メートル大のトカゲであった。雑食性で、人間も襲う。おそらくこの除草剤の臭いに感づいてやってきたのだろう。  口から粘着性の強いツバを飛ばして、獲物を捕らえ、するどい爪で肉を裂いて食べるという。 「くる!」  ハナの言葉のすぐ後に、叢から一体のゲッコウがツメを伸ばして飛び出して来た。  セインの弓はしっかりとそのゲッコウを捕らえていたようだ。ガサっという音と共にビュッ! と風を切る音がして、ゲッコウのこめかみに鋭い矢が直撃していた。 「ゲェッ……」  断末魔を上げて一メートルほどのゲッコウがもんどりうって倒れた。その逆の叢からは二体が口を開いて体勢を低くして顔を出す。  びゃるるっ!!  口から吐き出された黄緑色の粘液がヨナタンに向けて発射された。 「<氷結>!」  ヨナタンの両手からそれぞれ一発づつ、合計二発の氷の結晶が指先から弾丸のように発射された。見事に粘液に直撃した<氷結>魔法が粘液を固まらせて、その粘着性を失って地面に落ちる。  ゲッコウ二匹は驚いた様子で、それぞれ左右に散開して今度はツメを伸ばして飛び掛ってきた。  ハナは咄嗟に迎撃体勢に移った。  弓使いのセインも魔法使いのヨナタンも、その攻撃特性上、接近戦には隙ができてしまう。インファイトになった場合、すぐに迎撃できるのは難しいと考えていたからだ。  ゲッコウが飛び掛ってくる。そのツメは鋭く光り、ナイフのようだった。あれに切り裂かれたらたまらないだろう。  ハナが迫るゲッコウを標的に定めた瞬間――。  ドスゥッ!!  ゲッコウの横腹から矢が貫通していた。矢を放ったわけではなく、弓を投げ捨てたセインが()を右手で握り締め、そのまま(やじり)をゲッコウの側面めがけてぶち込んだのだ。 「ンゲエッ」  悲鳴を上げて泥の上でのたうつゲッコウはやがて動かなくなり絶命した。  もう一匹はヨナタンが三発目の<氷結>を打ち込んだ状態であった。どうやら、ヨナタンの魔法は掌から発射されるのではなく、指先から発射されるようだ。つまり、彼には計十発の弾丸が用意されていたのである。粘液を二つ打ち落としたとしても、まだ八発分は再充填(リロード)の必要なく打ち込めたのだった。  氷の塊を顔面に食らったゲッコウはまだ息があったようで、驚き戸惑いながらそのまま撤退していった。 「結局俺が二匹だったな」 「私は無益な殺生を好まないんです」  セインの冷やかしにヨナタンが軽く返して戦闘終了となった。  ハナとアッシャも固めていた神経を緩ませてほっと安堵の息を吐く。  けっこう自分が汗をかいている事に気がついたハナは、自分で想像していた以上にこの遭遇戦に対して緊迫していたようだ。 「……大丈夫か」  セインがハナとアッシャに声をかける。二人とも、緊張していた表情だったのだろう。 「平気だ」 「私も……」 「……ゲッコウが襲ってくるのは想定外だった。すまん」  これだけの刺激臭がした場合、野生の動物は本来遠ざかると考えていたのだが、この三匹のゲッコウはその例外だったらしい。  セインはそこに少しばかり違和感を感じながら二人が無事なことを確認して、とりあえず安心した。  そして、次なる襲撃があるかもしれないと、この場を離れるべきか思案した。自分ひとりならばイホテルートを見つけるために、除草剤を使うだろうが、現在はハナとアッシャがいる。危険性がある以上は二人を巻き込むわけには行かない。 「……またゲッコウが襲ってくるかもしれない。残念だがイホテルート捜索は一端打ち切ることにしよう。早く引き返すぞ」 「それが良さそうですね。ゲッコウだけならまだしも、……どうも嫌な予感がします」  ヨナタンもセインの意見に同意した。アッシャとしてもその意見には同意した。イホテルートがここで必ず手に入るという確証もないからだ。  ハナは一同の意見に頷くのみだった。イホテルートは自分が元の世界に帰るためだけの必要アイテムであって、本来この三人にとってはどうでもいいものだ。つまりこのイホテルート探索は単純に自分のためだけの活動なのだ。  自分のせいで誰かを危険な目には遭わせたくない。  ――過去、母親を失ったトラウマが顔を持ち上げてくる。  だから、ハナは硬い表情をしたまま、この場を引くという話にただただ頷いた。  道を引き返すように、今度はヨナタンが先頭に立ち、殿(しんがり)にセインが付いた。この場を離れようと動き出したとき、セインが思いついたように立ち止まった。 「すまん。少しだけ時間をくれ」  三人はその言葉にセインを見つめ返した。何をするつもりなのか、セインは先ほど仕留めたゲッコウの粘着液を凍らせた塊を細かく砕いて小ビンに採取しはじめた。 「そんなの、どうするの? それも錬金術の素材?」 「いや、どうにも引っかかることがあってな。ヒントになるかもしれないから念のためだ。……よし、これくらいか。急いで戻ろう。あのキャンプ地まで行くぞ」  冷凍保存されたゲッコウの唾液を入手したセインは腰をあげて一行の列に戻った。  ヨナタンがキャンプ地へ向けてきびすを返し、それに続く形で湿地帯を戻る虹川党の面々であった……。  結果的にこの判断は正しかった。  一行が去った後の除草剤が撒かれた沼地の刺激臭に惹かれるように、ゲッコウの群れだけでなく、人の頭ほどの大きさもある巨大な羽虫が集まってきたり、全長一メートルはある蟻やカマキリなどが集まりだしていた。  異様な沼地のその風景はまるでB級のモンスターパニック映画のようでもあり、だからこそおぞましかった。  あと少しここで時間を費やしていたら、ハナ達はこの化け物たちに群がられていたであろう。それらは二匹のゲッコウの死骸に群がり、肉を奪い合う。  黄土の沼と呼ばれるマルテカリの湿地帯は、醜悪な巨大虫たちの晩餐会場になっていた――。    **********  急ぎキャンプ地まで戻ってきた面々は、落ち着くために、テントを広げて食事と休息をとる事にした。  ハナとアッシャが食事を用意し、ヨナタンがテントを設営している中、セインは自分の荷物から錬金器具を取り出して、先ほど採取したゲッコウの唾液を検査しはじめた。  凍りついた細かい唾液の塊に自前の検査薬を垂らし、その反応を確認すると、セインの表情はどんどん険しくなっていく。 「セイン、ご飯できたけど……」  ハナが作業中のセインを呼びかけた時、セインは「ああ」とだけ返した。  どうもゲッコウの唾液を調べた中でまずい物を発見したようなリアクションだったので、ハナはセインの集中を乱さないように訊ねてみることにした。  「……なんか、おかしいの?」 「ああ――、俺の予感が外れていてくれた方がいいが……ここじゃこれ以上詳しいことは調べられそうにないな……。アカデミーならもしやとは思うが……」 「ヤバいことなんだな?」  ハナの問いに、セインはこくりと頷いた。金色の瞳は厳しい色を隠せないでいた。 「だったら、食事を終えたらアカデミーに行こうよ。重要なことなんだろ」 「ああ――」  ハナの提案に、セインもそうだなと頷き返したとき、やにわにキャンプ地が騒がしくなった。  ザワザワとほかのキャンプを張っている錬金術師達も何事かと様子を窺っている。騒ぎの先には、前にハナに握手を求めてきたトッドというアカデミーの学生があった。 「なんだろ」  ハナが騒ぎのそばまで行くと、トッドが半狂乱で叫ぶように周囲に警告していたのである。 「早くみんな逃げて!! ここはやばいよッ!!」  汗だくで注意勧告をするトッドであるが、周囲の錬金術師達は半信半疑と云った様子で判断に考えあぐねている。 「どうしたんだ」  ハナがトッドに声をかけると、トッドは情けない声を震わせながら「ファナさんっ」とすがってきた。  それを引き剥がすように間に素早く入り込んだセインが、改めてトッドを見下しながら聞く形になった。 「何があったんだ」 「ハッ、森の中に入ってはいけません!! 異常なまでに凶暴になったマンティスが襲い掛かってきました……。必死に逃げた先で、今度は巨大なブロードフライに出くわして……ッ! とにかく、森の中がモンスターだらけなんですっ!!」  汗を散らして悲鳴のような声で訴えるトッドに、周囲はまさかそんなと言った表情であった。臆病者の学生が大げさに言っているだけだと思っているのだ。  しかし、それを聞いたセインは確信めいた表情で喚くトッドを凝視していた。 「こいつの言う通りだ。みんな、森の中には立ち入らないようにしたほうがいい。この事をマルテカリの教会に連絡に走ってくれる人はいないか!」  セインの言葉に、周囲の人間はいよいよ「ありえない」という色が強まっていく。  臆病な学生に、ダークエルフの言葉である。どうにも信憑性がないと思われたのだ。  セインはそんな反応に若干焦れながら、先ほど採取したゲッコウの粘液を周囲の人間に見せた。 「被害を抑えたいなら、いう事を聞けッ! 証拠はこれだ!」  傍から見ても小ビンに入った氷の欠片にしか見えないが、証拠といわれて、周りの目が集まる。  ざわつくキャンプの人間の中から、「ちょっと見せてくれ」と進み出たエルフがいた。纏っている黒いローブに入った刺繍を見て、マルテカリ・錬金術・アカデミーの教授と判断できた。  モノクルをつけた髭の男性で年のころは三十半ばに見える。セインがその男へ小ビンを渡すと男は集団から離れてテントの中へと潜り込んで行った。 「とにかく、森には入るな。キケンなのは間違いない。それから警戒をしくように教会へ知らせを走らせてくれ」  セインはじれったくもう一度繰り返した。あの教授の男が分析する時間も惜しい。  そんなセインにハナはいよいよ非常事態で間違いないのだと分かった。先ほどからのセインの様子を見れば何か非常にまずい状況なのだということは理解できる。 「セイン、一体どういうことなんだ。あの森に何か異常があるんだよな?」 「湿地帯の生物が攻撃的になっている。それに、こいつが言ってた巨大なブロードフライ……俺の予想が間違っていなければ……マルテカリスラムで暴れたウィシュプーシュの状況と似ているんだ。あのゲッコウの粘液から、微量の薬物が検出された。おそらく……ダレンの薬物実験のそれだ」  セインの言葉に、ハナもその表情を堅くすることとなった。マルテカリのダレンはボスであるシグマジャを残し壊滅しているのだ。そんな状況で、この黄土の沼地でダレンの痕跡が見つかるという事は……。 「シグマジャが……この辺りにいる……?」  その回答に、セインはゆっくりと顎を引いた。絶対とはいえないが、可能性がある、と表情で告げていた。  周囲のざわめきが大きくなり、キャンプ場の騒ぎは広がりだしていく。流石に安易に森のほうへ踏み込もうという人間はいなくなったようだ。あとはしっかりとこの事実を近隣へ伝える必要がある。  暫くの後、先ほどの黒ローブの男が険しい表情でセインの元へやってきた。 「話が聞きたい。共にアカデミーまで来て欲しい。それから、皆に告げるがこの黄土の沼一帯は危険である。踏み入らぬよう、周囲に告知する必要がある! 探索には自重するように注意されたし!」  周囲のエルフ達に勧告した教授の声に、キャンプ地の錬金術師達は慌てて自分の荷物を整理するべく己のテントに散って行った。 「トッド! お前がマルテカリ教会へ報せに走れ! 私の馬を使っていい」 「は、はい! モンテノー教授!」  トッドがそう言って弾けた様に駆け出す。 「申し送れたが私はケネス・エリヤ・モンテノー。アカデミーの教授だ。君は?」 「……セインダール・ウィドリャンタス・ラーメン……」  セインの名乗りに、モンテノーがぴくりと反応したのを、ハナは見逃さなかった。 「分かった。セインダール。キミの見解を聞きたい。ついて来て欲しい」  モンテノーの言葉にセインはたじろぐような表情を浮かばせていた。ふと、ハナと目が合う。  なんだか怯えたような表情をしているようにも見えたし、判断に迷っているようにも見えた。 「行こう、セイン。セインの事を必要としてるんだから」  ハナの言葉に、セインは少しだけ視線を落とした。 「……」  やはり、セインはどこか一歩を踏み出せずにいるように見えた。  だから、ハナにはどう答えるべきなのか、正解なんて見えなかった。ただ、セインの行動で何があるにしても、自分はセインの傍にいると伝えたくて、彼の手を取った。大きな掌が冷たく感じられたのは、先ほどまで氷の塊を調べていたせいだろうか。 「分かった。行こう」  ハナの想いが伝わったかは分からない。  しかし、はっきりと分かっているのは、セインの冷えた指先に熱が伝わってきたのはハナが居たからだと云う事実のみだった。  僅かな熱が、暗く冷えた心を押すように、セインはモンテノーについて行くことにしたのである。
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